前話で述べたように、ジムと私はジョージアの本社工場のテコ入れの傍ら、テネシー工場の近くに2ベッドルームのアパートを借りて長期出張を重ねていた。トヨタの監査も終わり、ジョージア工場のテコ入れに目処がついた私たちにとって、最大の課題は6工場の中で「最大かつ最凶の問題児」であるテネシーの工場だった。
ジョージアから車を北へ走らせること4時間半。アパラチア山脈を越えた麓にあるその街は、かつて鉄道で栄えたものの、今は時代の波に取り残された静かな山あいの町であった。

1. 最大かつ最凶の問題児、テネシー工場とUSW
テネシー工場は6工場の中で唯一の「ユニオン(労働組合)工場」であり、過激なUSW(全米鉄鋼労働組合)が工場を完全に牛耳っていた。赤字を垂れ流しているにもかかわらず、給与水準はグループ内で最も高い。4年に一度の労使交渉の時期になると必ずもめ、ストライキを起こし、工場の設備を破壊し、労務部長の自宅の車をボコボコにするなど好き放題であった。
私は過去のストライキの凄惨な写真を見せられ、法治国家でこのようなことがまかり通っていることが信じられなかった。前話で述べたように、この町はアパラチア山脈のふもとの閉鎖的な街であり、ヒルビリーと言われる時代から取り残された白人中心の社会だ。地元の警察も皆顔見知りでグルであるため、多少の暴力的な行動は容認される傾向があるとのことだった。
最悪なことに、買収直後がまさにこの「労使交渉」のタイミングであった。先に述べたように、この工場は赤字工場のくせに給与が一番高い。我々は工程を改善し、コストを削減して黒字化することが第一の目的であり、できれば従業員の解雇はしたくなかった。そのため、賃金は現状維持を当然求めた。
アメリカの労働組合は巨大な組織だ。各組織は各州に支部を持ち、支部にいる幹部が交渉の主体となる。日本と違って彼らは我々の工場の従業員ではない。つまり、彼らの頭の中に「労使協調」という意識は、皆無とは言わないが極めて希薄だ。工場の従業員は組合に対して少なくない額を時給から納める。その上納金を対価として組合という組織は成立しているようだった。
テネシー工場の従業員の中には、組合活動に疑問を持っている人たちもいた。我々はそういう従業員とは職務を通じて良好な関係を築いていた。彼らは、以前の経営者と違って我々が従業員から搾取することを目的としていないことを分かってくれており、むしろ組合から離れることで組合費の支払いから解放され、より競争力のある工場へと生まれ変わることを望んでいた。こういう思想の従業員は少なくなかったが、いかんせんサイレントであった。声が大きいのは組合と共に少しでも賃金を上げようとする集団であり、彼らは我々日本人に決して心を開かなかった。

2. 異端のエリート弁護士「ビル」との出会い
組合交渉は当然、社長のロッドを中心とするローカルの優秀な経営陣とローカルの人事部長、そして顧問弁護士が行うため、我々日本人が矢面に立つことはない。
顧問弁護士は元々、H社を買収したときに契約していた全米有数の巨大法律事務所にお願いしていたが、いかんせん顧問料がべらぼうに高かった。パートナーと呼ばれる上級弁護士であれば1時間500ドル以上、一般的な若い弁護士でも300ドル以上、パラリーガルでさえ100ドル以上はかかっていたはずだ。そのためH社を買収した直後、ロッドはこの法律事務所との契約を解除し、テネシー工場の近くに事務所を開いたばかりの「ビル」と契約を結んだ。ビルはまだクライアントが十分に見つかっておらず、格安の固定費で1年間契約できたのだ。
私はテネシー工場への出張時にビルに会う機会があった。ビルは赤ら顔で恰幅の良い30代半ばの若者で、当時の私より一回り上の年代だった。彼は工場の人たちほどではないがテネシーなまりの英語を話し、当初はお世辞にも有能な弁護士には見えなかった。
しかし後で聞いたところ、彼は泣く子も黙るウエストポイント(陸軍士官学校)出身で、兵役後、ジョージタウンのロースクールを出て、当時のブッシュ政権の中枢にいた超絶エリートであった。彼のような人間と契約できたのは非常にラッキーだったのと同時に、社長であるロッドの優秀さが表れていた。
3. ジャガーで突っ込め! 本社の無茶振りと死のドライブ
組合との賃金交渉は揉めに揉め、案の定、彼らは実力行使である「ストライキ」に突入した。工場の入り口にはピケ(見張り)が張られ、一切の生産、物流が完全にストップしてしまった。
私たちの顧客は米系、日系の自動車メーカーだ。部品の供給が途絶え、巨大な自動車の生産ラインを少しでも止めてしまえば、計り知れない莫大な損害賠償を請求されるのが常である。私の脳裏をよぎっていたのは、1990年ごろに発生したブリヂストン(ファイアストン)の伝説的なエピソードだった。テネシー州の子会社で起きた品質クレームによる未曾有の危機に際し、日本の親会社のブリヂストンは、ジャンボ機を何機もチャーターして日本から代替タイヤを空輸したという話だ。膨大なコストを投じ、巨額の損失を被ってでも、「自動車メーカーのラインを死守する」。それが日本の部品メーカーが背負った、逃れられない十字架であり、意地でもあった。
だが、我々の製品は鉄の塊だ。空輸してペイするはずがない。ラインを止めれば会社は巨額な損害賠償を請求されるが、それを避けるために日本の親会社から部品を空輸すれば、巨額な輸送費用で会社はひとたまりもなく経営危機に陥る。それでなくともH社の買収費用の返済を背負っているのだ。そうなれば、この貧しい町で唯一の雇用であるこの工場も完全に消えてなくなるだろう。つまり、テネシー工場が選んだストライキという道は、誰も幸せにならない最悪の選択肢だったのである。
ストに突入する前は穏健派の従業員と関係を作ることに奔走していたジムと私だが、ストに突入してしまった以上、我々に出来ることは祈ることしかなかった。
いや、ないはずだった。ところが、現地の恐ろしさなど微塵も知らない日本の本社からは、呑気かつ非情な指令が下った。
「フランク、とにかくお前が工場を見てこい。なんとかしろ」
冗談ではない。相手は労務部長の家に停めてある車を壊すような暴徒の集団だ。しかし、行くしかない。私はジョージアからたった1人で、テネシーに向けて車を走らせた。「車を絶対に壊される」と直感し、念のために工場の片隅にあったオンボロの古い車を選んだ。
アパラチアの山道を走りながら、極度のプレッシャーと恐怖で「殺されるかもしれない」と、情けないことに涙が出てきた。
地獄に向かう道中、私には唯一の頼みの綱があった。顧問弁護士の「ビル」だ。私はテネシーに向けてジョージア工場を出発する直前、ビルに電話をかけた。すると彼は、いつもと変わらぬ穏やかな声で言った。
「フランク、工場には直接行くな。まずは俺の事務所に来い」
4時間30分後に事務所に行くと、ビルはいつも通りにこやかに接してくれた。
「フランク、前にも言ったがこの街は田舎だ。地元の警察もユニオンの連中とグルだから、まともに出動要請しても当てにならないんだよ」
その言葉とは裏腹に、ビルはニヤリと笑って言った。
「俺の車で行こう」
駐車場の前には、ピカピカに光り輝く新車のJAGUAR(ジャガー)が停まっていた。
「いやいやビル、絶対ダメだって! そんなの乗っていったらメチャクチャに壊されるよ!」
パニックになる私に向かって、ビルはパチリとウインクをした。
「Don’t worry(心配すんな)」
ビルの事務所から工場までの道中、私は助手席で小さく丸まり怯えていた。一方のビルはそんなことは微塵も気にせず、最近買ったばかりのジャガーの内装設備の説明をしている。夢であった車を買って自慢したかったようだ。超絶優秀な切れ者だが、私と同じ田舎の出身でどこか垢抜けない人だ。ビルの車の自慢話が全く頭に入らないまま、ついにピケが張られた工場の入り口に差し掛かった。
大柄な男たちがプラカードを持ち、歌を歌っている。ちょうどクリスマス前だったので「サンタクロースがやってくる」の替え歌で、「Japanese is coming to town. They got a lot of money♪(日本人が街に金をもってやってくる♪)」と、ふざけた歌を歌っている。
その光景を見た瞬間、私の脳裏に、かつて日本での実習時代に見た光景がフラッシュバックした。臨時雇用の作業者が200時間近くの残業を立ち詰めでこなしながら、やっと手取り20万円で家族を養っていたあの姿だ。急激に腹が立ってきた。こんな奴らに搾取されてたまるか!!
しかし入り口は完全に封鎖されている。いよいよピケに差し掛かった、その時。
車がゆっくりと近づくと、怒り狂っていたはずのピケ隊員たちが、まるで「モーゼの十戒」で海が割れるかのように、スーッと左右に道を空けたのだ。
誰も車に触れようとしない。それどころか、どこか怯えたような目でこちらを見ている。私たちはそのまま、無傷で工場のゲートを通過した。
あっけにとられる私に、ハンドルを握るビルがサラリと種明かしをした。
「さっき、ローカルの警察署長に電話しといたんだよ」
ビルは、地元の警察に対してこう言い放ったのだという。
『If you guys don’t do your job, I will sue your dumb ass!』 (お前ら、もし警察としての仕事をキッチリ果たさなかったら、その間抜けなケツの毛まで毟り取る勢いで訴え飛ばしてやるからな!)
ワシントンD.C.の政権中枢を知り尽くした超エリート弁護士からの、背筋が凍るような恫喝。警察から慌ててユニオンの幹部に「絶対にあのジャガーには手を出すな」と指示が飛んでいたのだ。
その瞬間、私はアメリカの真のプロフェッショナルを見た。日本の常識も、本社の理不尽な命令も届かない異国の無法地帯。そこには、圧倒的な交渉力と知性で道を切り拓く、本物のプロフェッショナルがいたのだ。ビルも裕福な出身ではないようだった。彼は自らの力で自分の未来を切り開き、過酷な陸軍士官学校、軍隊、政権を経て30代半ばで合法的にこのような理不尽に対応する力を身に着けていたのである。
アメリカの深い山奥で経験したこの「死闘と奇跡」は、26歳の私にとって、一生忘れられないビジネスの原体験となった。実際、62歳になった今振り返っても、これ以上の経験はなかったのではないかと思う。

4. 資本主義の残酷なリアル:「無条件降伏」と賃金カット
結局、組合との交渉で一切折れないロッドと弁護士ビルの手腕のおかげで、交渉は妥結した。この交渉には私のような若造は一切貢献していないが、組合側の盾は物流のストップによる自動車メーカーのライン停止である。通常であれば、ここで折れてある程度の賃上げを飲むことになると思うが、彼らは一歩も引かなかった。
それどころか、テネシー工場の閉鎖を通達したのだ。
私は耳を疑った。供給はどうするんだ。ジャンボで空輸はできないぞ、と。しかし、事態は私の想像を超えていた。かつての鉄道の要所で今はさびれたこの田舎町には、この工場を超える仕事は存在しない。この工場で働く以外に選択肢もスキルもない大半の従業員にとっては、家族ともども工場閉鎖は死活問題だ。
工場閉鎖をアナウンスした直後に、組合側から”Unconditional surrender(無条件降伏)”という通達が間もなくあった。日本人としては複雑な響きだと思ったが、どうやら中央の組合幹部の主張に反して、工場の従業員自身がその決断を押し通したようだ。こうして、ストは回避され生産は再開された。
それだけではない。ここから先が真の資本主義の恐ろしさだ。
我々の経営陣は「無条件降伏」という言葉を逆手に取り、従業員の賃金を20%近くカットすることを工場存続の条件とした。これで賃金は他の工場並みになるのだが、ストを先導した工場の急進派たちは急速に立場を失った。ストに突入しなければ賃金を下げることもなかったのだ。皮肉なことに、これを機にこの工場は黒字化していくことになる。
この経験は、私のこの後のビジネススタイルに大きな影響を与えることとなった。この数十年後、私自身が大きな組織を率いることになり、私情を殺して人員整理をすることも少なからずあった。私はそのようなケースでも逃げずに自分の言葉で相手に対峙し、厳しいこともしっかりと言うことを常とした。周りには冷たい人間に見られることも多々あったと思うが、「ビジネスとはこういうものだ」ということを、このストライキを契機に脳裏に焼き付けたのだ。
テネシー工場の人々とはそれなりに関係も築いていた。家族の顔も知っていた。給料を下げるのは本意ではない。しかし、工場は存続せねばならない。今回の交渉は、この工場が存続するための最適解だったのである。
5. 誰にも言えない「二重生活」と、ナイル川へ向かう男
テネシー工場でのストライキをなんとか乗り切ったが、実は私はこの時、肉体も精神もとうに限界を迎えていた。
というのも、私にはもう一つの顔があった。元々私はシカゴで、この会社の別事業である「工作機械向け部品のセールスエンジニア」として働いていた。ジョージアの工場に出向してからもその本業のミッションは継続しており、いわば「昼間は工場のPMIサポートで泥まみれになり、皆が帰った夜遅くから本業のセールスエンジニアの仕事をこなす」という、過酷な二重生活を送っていたのだ。
テネシーのストライキ対応などで寝る間も惜しんで駆け回り、出張者の世話もせねばならない疲労困憊の日々。そんな時、恐れていた事態が起きる。
私の本業である機械部品のビジネスで、お客様から巨大なクレームが発生したのだ。 現場は、ニューヨーク州北部のカナダとの国境沿い、「ナイアガラの滝」の近くにある町だった。一刻も早く現地へ飛び、顧客に謝罪と技術的な回答をしなければならない。
私は急いで日本の本社に連絡を取り、顧客へ提示するための正式な見解と技術回答を求めた。しかし、待てど暮らせど、日本からはまともな回答が返ってこない。
「アメリカで起きている火事」に対して、日本の本社はどこか他人事であり、非常に無頓着だった。時差の壁もあり、対応を後回しにされているのは明白だった。現地の顧客からは怒りの催促が来る。日本からは無視される。間に挟まれた私は、異国の地で完全に孤立無援となり、途方に暮れていた。
そんな私の窮状を、偶然耳に挟んだ人物がいた。 ちょうどジョージアの工場に出張で来ていた、あの「T常務」である。理不尽な本社の象徴であり、かつて現場を震え上がらせていた張本人だ。
T常務は、私が昼夜を問わず二つの業務に追われ、ボロボロになりながら奔走している姿を、実は黙って見ていたのだ。
事情を知ったT常務の顔色が変わった。彼はそのまま、日本の自分の部下たち(工場側)に国際電話をかけると、受話器越しに雷を落とした。
「お前ら、一体何をやっとるんだ!!」
普段の冷静なT常務からは想像もつかない激怒だった。
「フランクはな、こっちで毎日死に物狂いで働いとるんやぞ! それなのにお前らは、何のサポートもせんのか!!」
静まり返る日本の本社。そしてT常務は、最後に怒りに震える声でこう怒鳴りつけた。
「フランクはこのクソ忙しい中、明日『ナイル川』の近くまで行かなアカンねんぞ!!」
……ナイル川?
極限の緊張感の中、私の頭の中は一瞬「?」で埋め尽くされた。 ナイアガラである。私が明日行くのはニューヨーク州のナイアガラであって、エジプトのナイル川ではない。
しかし、顔を真っ赤にして私を守るために激怒しているT常務に、「常務、それナイアガラです」とツッコミを入れることなど到底できなかった。笑いを噛み殺すのに必死だったが、同時に、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
T常務の強烈なプッシュ(とナイル川への出張の脅し)のおかげで、日本側は慌てて動き出し、私は必要な回答をすべて手に入れることができた。翌日、無事に「ナイアガラの滝」の近くの顧客の元へ飛び、クレーム対応を収めることができたのだ。
T常務は理不尽に見える要求を突きつけることも多々ある。地名だって堂々と間違える。決してスマートなだけの人間ではないし、正直はらわたが煮えくり返ったのは一度や二度ではない。 しかし、部下が本当に窮地に陥った時、矢面に立って全力で守り抜く。その不器用だが圧倒的な「熱と情」を見た時、私は深く納得した。
「ああ、人は、言葉の巧みさや肩書きに従うのではない。その人間のどこかが強烈に『光っている』から、その背中を信じてついていくんだ」と。
アメリカ南部の赤土の工場で、アヒルに癒やされ、変な救世主たちに助けられ、時に笑い、時に泣きながら駆け抜けた私のアメリカ駐在時代・第一章。 その根底にはいつも、こうした「人間くさい光」が溢れていた。
次回予告:美談なきPMIと、若き日の葛藤(仮)」
ジャガーでの強行突破から始まった壮絶なストライキ闘争。その果てに待っていたのは、組合側の「無条件降伏」だった。 しかし、真に犠牲となったのは、安全な北部にいる組合幹部ではない。現場で汗を流してきた作業者たちだった。
2工場の閉鎖、大量のリストラ、販売価格の適正化、資材の値下げ——。 お決まりの冷徹なPMI(買収後統合)セットが粛々と実行され、工場は買収から3年を待たずして見事な「黒字化」を果たす。
しかし、これは『プロジェクトX』にあるような、胸のすく成功秘話ではない。 生き残るために血の通った人間たちが切り捨てられていく、残酷な「本当の生存競争」の記録だ。 会社を救うという大義名分の裏で、私は常に自問していた。
「若造のお前が偉そうに。お前自身なら、本当に彼らと同じことができるのか?」
業績回復の光と、現場に落ちた深い影。終わることのない葛藤を抱えたまま、物語はさらに泥臭いアメリカ南部の深淵へと進んでいく。



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