アメリカ南部の田舎町での工場再生ミッション。少しずつ現場のワーカーたちと心を通わせ始めた私たちに、ついに「トヨタの工場監査」が降りかかってきた。
「フランク……これは厳しいぞ」
「ジム」こと、品質管理課長の下さんは、言葉の壁を越えて現地のワーカーたちから慕われていた。しかし、彼自身日本で一度も「トヨタの厳しい工場監査」を受けた経験がなかった。職人肌で現場に強いジムだからこそ、日本の製造業におけるトヨタの品質管理と監査の厳しさを、そしてこの監査が一筋縄ではいかないことを誰よりも理解していたのだ。

1. 理不尽な「手のひら返し」に思えた監査の裏側
この監査の発端は、私たちがこの会社を買収する「前」に出荷された製品に起因する市場クレームであった。
我々はいわゆる「Tier1(一次下請け)」ではなく「Tier2(二次下請け)」に分類される企業だ。我々の製品はTier1であるJ社(サブアセンブリーメーカー)に納入され、そこからトヨタのようなOEM(完成車メーカー)に納入される。
パワートレインの重要部品であるため品質要求は極めて厳しかったが、通常、品質クレームは直接の納入先であるTier1が対応し、彼らがTier2を監査するのが筋だ。我々の工場にトヨタが直接やって来ることは通常あり得ない。
今回の監査は、事の重要性を表すと同時に、「アメリカの工場を買収した日系企業(我々)が、きっちりと品質改善を進めているか」を見極める意味もあったのだろう。
もし今回の監査で原因を特定し、再発防止策をきっちり示せなければ、トヨタに対する納入は停止される。そうなれば我々が困るのはもちろんだが、Tier1のJ社も日本からの輸入を余儀なくされ、関税やLocal Content(現地調達率)の問題で窮地に立たされる。つまり今回の監査は、同行してくるJ社の「沽券にかかわる監査」でもあったのだ。
J社はトヨタの系列メーカーで、工場の多くは関西にあり、我々のカウンターパートも大阪や奈良の出身であった。J社は買収前からH社(買収した南部企業)に対して品質指導を行っていたが、言葉の壁などで難航していたようだ。
もともと我々のH社買収は、日系の自動車メーカーやTier1企業から「ぜひアメリカに来てくれ。全面的にサポートするから」と懇願されて決断したものであった(少なくとも若い私はそう思っていた)。しかし、いざクレームが発覚すると、J社からは「お前らのせいや。どないしてくれるんや」という強烈な手のひら返しに遭ったようにしか思えなかったのである。
問題は、我々の工場の設備更新も改善も始まったばかりで、誰が見ても「良い状態」とは言えなかったことだ。

2. トヨタの「現地化」とH社の「日本化」
そして始まった工場監査。 トヨタからはパワートレイン部門の課長級と主任級の日本人出向者2人、そして大学を出て間もないアメリカ人技術者「John(ジョン・仮名)」がケンタッキー工場から来ていた。 Tier1のJ社からは、サウスカロライナ工場から品質担当の日本人出向者2人、ミシガン営業所からトヨタ担当のFAE(技術営業)の日本人が1人。 迎え撃つ我々は、アメリカ人工場長、品質部長、ジム、そして私(フランク)の4人である。
トヨタの監査は超・現場主義だ。1人が質問して我々が説明している隙に、他の2人が勝手に違う工程へ行ってチェックを進める。少人数の我々は対応に苦慮した。
ここでも現場作業者との間を取り持つのは私だ。トヨタの課長からの質問はすべて日本語のため、私がマネージャーや作業者に英語で聞いて回答する。時には好ましくない事実をそのまま回答せざるを得ない場合もあった。
そういう時、トヨタではなくJ社のヒゲを生やしたFAEが、烈火のごとく私に怒鳴り散らす。 「そんなことを聞いとるんとちゃうんや!」
「なぜ別会社の人間に怒鳴られなければならないのか」と内心不満であったが、要するにJ社も必死だったのだ。J社メンバーのトヨタに対する気遣いは尋常ではなかった。
到着後の会議室での出来事だ。J社メンバーの一人が「トヨタの方が喫煙するから灰皿を持ってきてほしい」と要求してきた。当時の我々のオフィスは禁煙であったが、上司は背に腹は代えられないと認めてしまった。翌日、事務所の女性社員数名から猛抗議を受けた。要求した側も認めた側も不適切であり、体を張ってでも拒否すべきだったと、今でも反省する私のビジネス人生の汚点の一つである。
ピリピリとした空気の中、私はふと、トヨタの日本人上層部が若きアメリカ人技術者Johnに強い気を使っていることに気づいた。トヨタが経験の浅い彼を同行させているのは、彼を鍛え、「監査」という重要職責を現地化(Localize)しようとしているからであった。
Localization(現地化)は海外進出企業の大きな課題だ。1から工場を新設した大企業は、当初は日本からの大量の出向社員で回すが、コスト面でも法的にも永続はできない。
一方の我々は、完全なアメリカのローカル企業を買収し、そこに「日本のモノづくり」をいかに注入するかという課題を抱えていた。まさに「真逆の課題感」が交差する現場であったのだ。
監査はどうしても日本語(関西弁)中心になりがちで、これではJohnが浮いてしまい、トヨタの望む育成にもならない。そこで私は、意図的にJohnを中心に会話を回す戦術をとった。 Johnとアメリカ人メンバーとの英語の会話を中心に据え、その内容を私が日本人メンバーに日本語で通訳しながら進める。こうすることで、ヒゲのFAEの「怒声ノイズ」を封じ込めることにも成功したのだ。
指摘は多々受けたものの、この戦略が見事に功を奏し、日中の厳しい監査を何とか切り抜けることができた。
3. 夜のアトランタ決戦と、ファシリテーションの本質
日中の指摘を神妙に受け止めた後、私たちは監査員たちを車に乗せ、ジョージア州の州都・アトランタへと向かった。車を走らせること40分。そこには、アメリカ南部随一の高級和食レストランがあった。
「いやあ、本日は遠いところ、本当にありがとうございました! ささ、どうぞどうぞ!」
そこからは昭和・平成初期の日本企業の「伝統芸能」である。最高級の日本食と酒をこれでもかと振る舞った。
ケンタッキーの工場から来た若きJohnは高級和食店など行ったことがなかったようで、よほど楽しかったのかかなり酔っぱらっていた。こうした場では日本人同士が日本語で盛り上がり、外国人が放置されがちだが、私は「郷に入れば郷に従え」を貫いた。会話の中心を英語に置きつつ日本語でフォローを入れることで、Johnに疎外感を持たせないというトヨタの意図を満たし、同時にうるさいJ社の面々を黙らせることに成功した。
すっかり酔っぱらったJohnは、私にこう尋ねてきた。 「日本の出向社員はみんな英語が出来ないのに、どうしてフランクはそんなに話せるんだ?」
監査は完璧ではなかったが、我々が設備をどんどん更新して投資している姿を見て、トヨタの監査員も安心したのだろう。彼らもいじめに来ているのではなく、一緒に「世界一の品質の車をつくるため」に指導に来ていたのだ。
私は昼間の腹いせも込めつつ、笑顔で強烈な皮肉を言ってのけた。 「真剣に仕事してたら、普通は話せるようになるでしょ」
後年、私は半導体業界へ転職し海外ビジネスを継続することになるが、食事や会議で外国人と日本人が同席する際は、どちらかの言語だけで勝手に話が進まないよう常に留意してきた。日本語主体の会議で外国人が疎外感を持たないようファシリテーションすることを部下にも指導してきたが、近年の日本企業はこの意識が希薄になっていると感じる。この数十年間、日本企業がアジア諸国に対して見劣りするようになった背景には、こうしたコミュニケーションの姿勢も関係しているのではないだろうか。
余談であるが、当時の日本の製造業に従事する人間は昼夜問わず働いていた。海外駐在の響きは華やかだが、実際は日本の労働基準法が及ばない土地で、安月給で重い責任を背負う激務であった。日本ではバブル期と呼ばれ、六本木で万札を振りかざしてタクシーを拾うような浮かれた状態が語られるが、当時の国力を支えていたのは間違いなく製造業だ。そしてその現場にいた人間は、バブルの虚構とは無縁であったことを強調しておきたい。

4. 机のイエローリボンと、涙のクリスマス
季節はめぐり、暮れも近づいた頃であった。ある日、事務所の事務員たちの机に、一斉に「イエローリボン」が飾られていることに気づいた。
兵士が戦地から無事に帰還することを祈るリボンである。その頃、アメリカは「湾岸戦争(1990年8月開戦)」に突入していた。連日CNNがアメリカ軍によるピンポイント爆撃の映像を世界中に配信していた時代だ。
我々の従業員は月給制(Salary)と時給制(Hourly)に分かれ、現場作業者はマネージャー以外全員がHourlyであった。当時の時給は約8.50ドル。1日8時間、月22日働いても月収1,500ドル足らずで、年収20,000ドルに届かない。家族を養うため、若い従業員を中心に多くの者が「予備役(Reserve)」に登録していた。平時は月2回の週末訓練で手当をもらえるが、有事の際は「出兵」が義務付けられる。
1990年のクリスマスパーティーは格別であった。近くのホテルの宴会場を借りて行う質素なパーティーだが、この年は工場から戦地へ向かう出兵者の「送別会」も兼ねていた。
南部のカントリーミュージックに合わせてダンスを踊るのが恒例だが、パーティーの最後、皆が涙した光景が胸に焼き付いている。
出兵者の一人、高卒作業者のグレッグは私より少し若く、同じ職場で働くメラニーと結婚したばかりの新婚であった。そのグレッグが戦地へ向かうのだ。メラニーの母メーガン(彼女も同僚だ)も大泣きしていた。皆、グレッグの身を案じていたのだ。
泣き崩れる彼女たちを見ながら、私は心から思った。 「もっと多くの給料を払える会社にできれば、彼らは戦争になど行かなくて済むのに……」
後日談となるが、我が社から出兵した予備役は全員無事に帰還した。グレッグも生還し、後に第一子を授かった。
そして私がアメリカを去ってからずっと後の話だが、グレッグはこの工場の「工場長」へと昇進した。通常、米系企業では大卒(Degree)でなければ工場長になれない。しかし、中卒の叩き上げであるT常務が牛耳る我が社に、そのような学歴の壁は存在しなかった。「能力がある」と判断すれば、学歴に関係なく職責を与える。私はこのマネジメント手法を誇りに思っている。
さらに話はそれるが、湾岸戦争当時、特に印象に残っているエピソードが2つある。
1つ目は、工場の男性トイレでのことだ。男性トイレの小便器には跳ね飛び防止用のマットが敷かれており、通常は青色のマットを清掃業者が定期的に交換してくれる。しかしある日トイレに行くと、なんとそのマットに「サダム・フセインの顔」が印刷されていたのだ……。
2つ目は、当時の出張者とのエピソードだ。当時は入れ替わり立ち代わり日本から出張者が来ていたのだが、週末になると「実弾で拳銃を撃ってみたい」と言う者がいた。そういう時は車で少し離れたシューティング・レンジ(射撃場)へ連れて行く。通常、的は「Bulls eye」と呼ばれる円形のものが使われるのだが、この時期の的はすべて「サダム・フセインのイラスト」になっていて閉口させられた。
戦意高揚の気持ちは理解できなくもないが、アメリカ人のこうしたストレートで子供じみたメンタリティーは、私にとって完全には受け入れがたいものであった。
ジョージア工場は設備更新が進み、なんとか再生の目途がついてきた。しかし安堵する間もなく、私の前にアメリカ駐在時代最大の「本当の地獄」が口を開けて待っていた。
それが、テネシー州のもう一つの工場で待ち受ける、全米鉄鋼労働組合(USW)との血で血を洗う激闘であった――。
(第10話へ続く)
【次回予告】第10話:全米鉄鋼労組(USW)の壁と、工場を包囲する「怒号のストライキ」
ジョージア工場の再生に目途がついた矢先、舞台は「最凶の問題児」イーストテネシー工場へ。不況の波と共に突きつけられたリストラ計画に対し、全米強力労働組合USWが牙を剥く。ピケットラインが敷かれ、工場を包囲する怒号と脅迫。命の危険すら感じる凄絶なストライキの修羅場で、私とジムが取った決断とは――。次回もお楽しみに!
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