第2話:月の残業200時間、昭和の「監獄」で学んだこと

海外ビジネスノンフィクション自伝シリーズ

1. 「背広」が脱ぎ捨てられた入社式

1987年4月1日。私の社会人としての第一歩は、関西にある主力工場の会議室から始まった。同期は、大卒が私を含めて8名(男性6名、女性2名、うち理系4名)、そして高卒の若者が30名ほど。皆、真新しいリクルートスーツに身を包み、緊張した面持ちで整列していた。

しかし、その「サラリーマン」の象徴であるスーツ姿は、わずか数十分で幕を閉じる。人事に促されるまま更衣室へ向かい、支給されたばかりの作業着、作業帽、そして重い安全靴へと着替えるよう指示されたからだ。再び会議室に戻ったとき、そこにいたのは「若きビジネスパーソン」ではなく、一介の「作業員」の集団であった。

社長の訓示や組合委員長の挨拶を、油の匂いが微かに漂う作業着姿で聞く。後に営業配属となる私を除き、他のメンバーたちが二度とスーツで出社することはなかった。私の「海外への憧れ」は、こうして泥臭い現実の底へと沈められることになったのである。

2. 「カーキ色の帽子」と現場の絶対的階級

配属発表が行われた。私は「アメリカ(シカゴ)駐在候補の海外営業要員」であったが、会社の方針でまずは1年間の工場研修が課された。行き先は、奈良にある工作機械の精機部品工場。翌日から、私は工場の更衣室で再び作業着に袖を通した。

現場には、一目でわかる「階級」が存在していた。作業帽に巻かれた「線の数」である。

  • 係長: 黄色の3本線

  • 主任・班長: 2本線

  • 副主任: 1本線

  • 平社員: 線なし

我々見習いの実習生には「カーキ色」の帽子が与えられた。現場において帽子の線は絶対的なヒエラルキーを象徴しており、出世することを「線を巻く」と言っていた。後にごまをすって出世する人のことを「ごますりが線巻きよった」というような揶揄をよく聞いたものだ。

私が配属されたのは「第6製造係」。係長は、中卒叩き上げの40代半ば。初日こそにこやかに迎えてくれたが、その笑顔を見たのはそれが最後だった。後に我々が彼を陰で「鬼瓦権蔵(おにがわらごんぞう)」と呼ぶことになるほど、昭和の現場を体現する無茶苦茶な鬼軍曹だったのだ。

3. バブル前夜、バズらない時代の「無茶」

当時の勤務条件は、建前上は「8:00〜17:00、週休2日」であった。しかし、配属初日に衝撃的な発表がある。プラザ合意後の「円高不況」による業績悪化を理由に、全社を挙げて「週休1日」で乗り切ることが会社と組合の間で合意されたというのだ。

現代であればSNSで即座に拡散され、大炎上する事態だろう。しかし、当時は「バズらない時代」である。経営者にとってはある種、強引な経営が通ってしまう時代でもあった。事実上、全従業員が土曜日を「サービス出勤」として繰り返すことになった。上場企業でありながら、このような無茶がまかり通っていたのである。

仕事の内容は単純な組立作業だ。実習という名の、単なる「人海戦術のコマ」であった。

  • 過酷な労働環境: 休憩は昼休みと残業前の20分のみ。昼休み1時間のうち30分は強制的な掃除に充てられた。

  • 殺人的な拘束時間: 残業は連日4時間以上。土曜も当然のように働き、日曜も月に2回は出勤だ。

  • 納期への執念: 設備の不備を「根性論」で埋めるオペレーション。月末は「納期に追いつかなかった」という言い訳を社長にさせないためだけに、全員で徹夜作業が恒例となっていた。

月の残業時間は200時間に迫り、生活はまさに「監獄」そのものであった。

4. 世界に晒された過酷な現実

この狂気のような生活の恐ろしさを、私はこの1年半後に赴任したシカゴの地で改めて知ることになる。着任して2カ月ほど経った1988年11月、『ニューヨーク・タイムズとシカゴトリビューン』は一面トップで”Japanese Live and Die for Their Work.”という見出しで、日本の過労問題を特集記事として掲載した。

そこには、私の会社の名前が記されていた。当時、日本における「過労死」の労災認定が社会問題となるなか、激しいジャパン・バッシングの風潮もあり、米有力紙は「不気味で異常な日本の労働文化」を象徴する事例として、我が社の惨状を世界に晒し上げたのだ。私はまさにその渦中の現場で、一作業者として立ち尽くしていたのである。

5. 原口さんの言葉:現場への敬意の原点

第6製造係には、私の父よりも年長の、60歳近い臨時作業員の方々が何人もいた。彼らは、実習生である私よりも低い給与で、私以上に過酷な労働を文句一つ言わずにこなしていた。

「仕事があるだけましや……」

それが彼らの口癖だった。月32時間を超える残業代が支払われない不当な状況にあっても、家族を養うために黙々とネジを締める彼らの前で、私などに文句を言う資格はなかった。

中でも、私を息子のように可愛がってくれた原口さんというベテラン作業員の言葉は、40年経った今も忘れることができない。

「君はいいな。営業に入ったらここから抜けれる。俺は一生ここや」

はにかみながら放たれたその言葉は、私の胸に深く突き刺さった。

私にとって工場実習は期間限定の「試練」に過ぎないが、彼らにとってはそれが「一生の現実」である。この重い事実を知ったとき、私の中に現場の作業者に対する「深い尊敬」が芽生えた。

6. エピローグ:南部へ繋がる「モノづくりの魂」

後に私は、アメリカ南部の工場で現地のワーカーたちと共に働くことになる。そこで彼らの信頼を勝ち取り、PMI(企業統合)という難事業を成し遂げることができたのは、この奈良の工場で身に付けた「現場への敬意」があったからに他ならない。

営業職となってからも、自身の評価を気にするより先に、「この無理な受注が現場の原口さんたちをどれだけ苦しめるか」を常に考えた。部下が現場を軽視するような仕事をすれば、厳しく叱責した。

1987年の、油と泥にまみれた「工場監獄」の日々。それは間違いなく、私のビジネス人生における最大の武器である「現場第一主義」を形作った、尊い原体験であった。

【次回予告】

第3話:初めてのフライト、そして摩天楼シカゴでの「束の間の夢」

地獄の実習を終えた私に下されたのは、待望のシカゴ赴任。初めて乗る飛行機の窓から見た景色、そして96階建てビルでの華やかな生活。しかし、その裏では、さらなる激闘の地「南部」へのカウントダウンが始まっていた。

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プラザ合意後の1985年、田舎の学生が海外ビジネス最前線に飛び込むまでの記録。月200時間残業の工場、日本製造業の病など、40年間の実体験を全話一覧でお読みいただけます。

※本記事は筆者の実体験に基づき構成されている。一部の歴史的事実は当時の報道や経済統計に基づき補足した。

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