第5話:ダウンタウン96階建てビルの煌めきと、南への「片道切符」

海外ビジネスノンフィクション自伝シリーズ

1988年秋。伊丹空港で見送られ、ノースウエスト航空の格安航空券を握りしめてシカゴ・オヘア空港に降り立った23歳の私は、澄み渡る真っ青なシカゴの空を見上げて涙を流していました。

それは、1年半にわたる「工場監獄」という名の地獄の実習生活を耐え抜き、ついに憧れの海外ビジネス最前線にたどり着いたという強烈な安堵と興奮の涙でした。これから始まる摩天楼での華やかな日々。しかし、その甘い「束の間の夢」の裏で、私の人生を根底から揺るがす「南部」へのカウントダウンがすでに始まっていることを、当時の私は知る由もありませんでした。

1. 摩天楼の21階:油まみれの工場から大都会シカゴへの「劇的な転身」

私にとって初めての海外の地となったシカゴは当時、ニューヨーク、ロサンゼルスに次ぐアメリカ第3の都市であった。巨大なミシガン湖の西側に位置するこの街は、中西部の重厚な工業都市としての歴史を持ちながら、金融と商業が極限まで発達した、息をのむほど美しい大都会だ。

湖岸にそびえ立つ摩天楼の群れは、当時の日本とは比較にならない圧倒的なスケールを誇っていた。 当時世界で最も高いビルだった「シアーズ・タワー」(110階建て、高さ443メートル)、第3位の「アムコ・タワー」(現アオン・センター)、そして第5位の「ジョン・ハンコック・センター」をはじめとする建築美の競演である。ちなみに、当時世界で2番目に高かったビルはニューヨークの世界貿易センター(WTC)のツインタワーであったが、それは後年、悲劇的なテロによって崩壊してしまうことになる。

私が働くことになった事務所は、黒い台形型のフォルムが美しい96階建ての「ジョン・ハンコック・センター」の21階にあった。映画『ブルース・ブラザーズ』にも登場する、シカゴを象徴するランドマークビルだ。ニューヨーク・マンハッタンのような雑多で窮屈な感じはなく、碁盤の目に整理された街路と広大なミシガン湖が調和した、まさに「理想的な美しき都市」であった。

私の住まいは、前任者から引き継いだ郊外にある古いアパートの2ベッドルームだ。大家はユダヤ人の老夫婦で、家賃は当時約600ドル。当時のルールで、毎月月初に小切手(Personal Check)を郵送して支払うことになっていたのだが、この支払いが1日でも遅れると、即座に出向先へ督促の電話がかかってきた。「ユダヤ人はお金にうるさいというのは本当なのだな」と、23歳の私は身をもって体験し、苦笑いしたものだ。アパートの家賃自体は600ドルであったが、会社から大部分の補助が出ており、私の自己負担分は100ドルであった。

アパートから事務所までは、車で約40分のドライブだ。ジョン・ハンコック・センターはビルの4階から7階がすべて巨大な螺旋状の立体駐車場になっており、私は毎日、そこへ直接車で乗り入れていた。

スーツを着て、アタッシュケースを抱え、大都会の超高層ビルの駐車場へさっそうと乗り付け、エレベーターで21階のオフィスへ上がる。わずか半年前まで、奈良の工場でカーキ色の実習帽をかぶり、油と鉄粉にまみれて汗を流していた自分を思えば、それは完全にパラレルワールドに迷い込んだような別世界であった。

2. 閉ざされた耳と、ある朝突然訪れた「英語のブレイクスルー」

私が出向していたのは、実質的に当社の製品(工作機械部品)を全米に販売する総代理店を担っていた、日系超大手総合商社のシカゴ支店であった。私はメーカーからの「営業サポート(駐在員)」として、主に技術的な製品アプリケーションの担当を任されていた。

オフィスの相棒となるのは、アメリカ人のタフな営業マンであるデニスとピーターの2人、そしてアシスタントの黒人女性、パムの3人である。

私は大学時代、いつか海外に行くために必死で英語を独学し、スピーチ大会で賞をもらったりしていたため、英会話にはそこそこの自信があった。しかし、実戦のビジネス現場は、そんなアマチュアの自信を木っ端微塵に打ち砕いた。

特に、全米の顧客エンジニアからかかってくる、容赦ないスピードと専門用語に満ちた「技術的な問い合わせの電話」には当初まったく対応できなかった。受話器の向こうから聞こえるネイティブの怒涛の英語が、ただの雑音にしか聞こえないのだ。仕事がスムーズにいかないことに明らかに苛立ちを隠さない顧客もおり、「お前じゃ話にならない、マネージャーを出せ!」と冷たく言い放たれることもあった。毎日が極度の緊張とストレスで、夜も満足に眠れない日々が続いた。

周囲を見渡すと、シカゴには有名な大学(シカゴ大学やノースウェスタン大学など)が数多くあり、日本からの留学生も大勢いた。銀行や官公庁から派遣され、一流ビジネススクールでMBAを目指す超エリートたち。その一方で、親の金で遊び呆けているだけの、日本人同士でつるむ「似非(えせ)留学生」も街に溢れていた。彼らは異国に来ていながらも、いつも日本食材店や日本食レストランに集まっては日本語で傷を舐め合っていた。

私は、彼ら日本人コミュニティとは意図的に距離を置くことに決めた。「ここで逃げたらだめだ」と自分を追い込んだのである。

見るテレビも、聴くラジオもすべて地元のローカルメディアのみ。日本語を何日も話さない、徹底した「現地化」の環境に身を置いた。気がつけば、1週間以上日本語を一言も発していないことも珍しくなかった。

そんな孤独な戦いを続けて半年ほど経った、ある冬の朝のことである。アパートのベッドで目を覚ました瞬間、ふと自分が「英語で寝言を言っていた」ことに気がついた。

そして、その日オフィスで電話を取った瞬間、信じられない奇跡が起きた。 今まで分厚い壁の向こうから聞こえていたような、不明瞭で恐ろしかったはずのネイティブの英語が、まるで耳の奥に詰まっていた栓がスポンと抜けたかのように、極めてクリアに、日本語と同じ自然さで頭に流れ込んできたのだ。

「これか!」と私は興奮した。以前、先輩から「現地の文化にどっぷり浸かっていると、ある日突然、急になんでも耳に入って理解できるようになる瞬間が来る」と聞かされていたが、まさにそのブレイクスルーが私にも訪れたのだ。その日を境に、電話での顧客対応も、技術的な議論もまったく怖くなくなった。言葉の壁を乗り越えた瞬間であった。

3. 手取り1,050ドルの美しき貧困:出張補填とTVディナーの日々

英語が話せるようになり、仕事に自信が出てきた私であったが、生活面では相変わらず「美しい貧困」の中にあった。当時の私の給料は、手取りで月にわずか1,050ドル。当時の為替レート(1ドル=120円〜130円前後)で換算すれば、13万円強といったところだ。

その1,050ドルから、アパート家賃の自己負担分である100ドルを差し引くと、実質的な可処分所得は毎月950ドルしか残らなかった。

私の職務は全米の営業サポートであったため、毎週のように全米各地を出張して回る必要があった。担当エリアは文字通り全米すべて。東部の工業地帯から、遠くは西海岸のカリフォルニアまで、飛行機とレンタカーを駆使して飛び回った。

しかし、会社が定めた出張の日当(アローワンス)は、信じられないことに「1日75ドル」であった。というのも、この75ドルの中に「ホテル代」と「食事代」の双方が含まれているという、とんでもなく無茶なルールだったのである。

当時の物価は今より安かったとはいえ、出張のほとんどは大手商社のエリート営業マンたちとの同行だ。彼らが見すぼらしいモーテルに泊まるわけもなく、私だけが格安ホテルに別れるわけにもいかない。

東部や南部の地方都市であれば、安価なビジネスチェーンホテル(「Fairfield Inn」「Red Roof Inn」「Holiday Inn Express」など)を30ドル〜40ドル台で見つけてなんとか日当の範囲内に抑えることもできた。しかし、ロサンゼルス(LA)やニューヨーク(NY)といった大都市では、普通のビジネスホテルでも1泊100ドル近くかかった。差額は当然、私のポケットマネーから「自腹」で補填するしかなかったのである。

この出張による赤字の補填に加え、当時は日本にいる今の妻(当時の彼女)との国際電話代が重くのしかかった。当時は1分あたり約0.80ドル(約100円)という高額な通話料。月に数回近況を報告し合うだけで、毎月200ドル〜300ドルという巨額の電話代が消えていった。

結果として、手元に残る可処分所得は毎月わずか数百ドル。週末になると、仕送りを贅沢に使って遊んでいる日本人留学生たちの姿を横目に、私は一人アパートで、スーパーマーケットで2ドルほどで売られている激安の「TVディナー」(仕切りのついたアルミ製容器に冷凍の肉、マッシュポテト、野菜がセットされたワンプレート冷凍食品)をオーブンで温め、ひっそりと食べるような生活を送っていた。

さらにシカゴの冬は、過酷そのものであった。緯度的には日本の札幌とほぼ同等なのだが、巨大なミシガン湖から遮るもののない強烈な寒風が吹き荒れるため、シカゴは「Windy City(風の街)」の異名を持っていた。

気温自体も摂氏マイナス15度程度まで下がるのだが、恐ろしいのは強風による「Wind Chill(体感気温)」だ。風が吹くと体感温度は簡単にマイナス30度を下回る。

私は給料が少なかったため、冬用の防寒着を買い揃える余裕がなかった。日本から持ってきた薄手のスーツに安物のトレンチコートを羽織って出社していたのだが、ハンコック・センターのビルを出て、わずか2ブロック先(約200メートル)の銀行へ行くことすら命の危険を感じる寒さであった。強風に皮膚を切り裂かれるような痛みに耐えかね、途中にあったドラッグストア(Walgreens)に逃げ込み、店内の暖房で暖を取ってから再び歩き出す。そんなことを繰り返していた。

だが、この過酷なシカゴの冬を経験したことは、私の人生の強固な土台となった。後年、私はビジネスでフィンランドの北極圏に近い街へ冬場毎月のように出張することになる。ダイヤモンドダストが舞うマイナス30度の極寒の地でも私が平気でいられたのは、「シカゴの、あの狂気のような風を伴う寒さに比べれば、風のないマイナス30度など大したことはない」という絶対的な基準が身についていたからだ。

4. 1989年の光と影:昭和の終焉、祖母の死、そしてカトリックの葬列

シカゴでがむしゃらに働き、アメリカの広大な国土を駆け回っていた1989年、私の周囲ではいくつかの忘れられない歴史的出来事と、個人的な悲劇が重なった。

昭和の終焉と日系コミュニティの涙

1つ目は、1989年1月7日、昭和天皇の崩御に伴う「昭和時代の終焉」であった。 私は日系商社に出向していたため、東京の本社や上層部から「昭和天皇崩御に伴い、しばらくの間、宴会や対外的なパーティーは一切慎むように」との厳格な自粛指示が出た。バブル景気の絶頂期に向かう日本が、ある種異様な「喪に服す静寂」に包まれる中、私も異国の地で激動の「昭和」が自分のいない間に終わっていくことに、言葉にできない寂しさを感じていた。

当時、シカゴには2万人以上の日本人が暮らしていた。中には、戦前や戦後間もない過酷な時代からアメリカに渡り、幾多の苦労を乗り越えて生き抜いてこられた一世、二世の日系高齢者の方々も数多くいた。 昭和天皇崩御のニュースが流れた時、日系人会のコミュニティで誰よりも深く、激しく涙を流して悲しんでいたのは、そうした激動の昭和を生き抜いてきた高齢の先輩たちであった。祖国を離れ、アメリカという地で偏見や苦難と戦いながらも、彼らの心の拠り所には常に「天皇陛下」と「祖国」があったのだ。その深い悲しみの前で、日本のバブルしか知らない若い駐在員たちが淡々としている姿を見て嘆いておられた日系人の方の姿が、今も胸に焼き付いている。

サンフランシスコ大地震と母の電話

2つ目は、同年10月17日に発生したサンフランシスコ・ロマ・プリータ地震(マグニチュード6.9)であった。ワールドシリーズの最中に発生し、サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジの一部や二層式の高架高速道路が無惨にへし折れて崩落した様子は、全米に生中継された。

地震の発生から数時間後、シカゴの私のアパートの電話が深夜に鳴り響いた。受話器を取ると、日本の田舎にいる母親からであった。母はニュースで「アメリカで大地震」と聞き、パニックになって電話をかけてきたのだ。

「お母ちゃん、アメリカは広いんや。シカゴからサンフランシスコまでは、日本からベトナムへ行くくらい離れてるから、こっちは地面の揺れすら感じてないよ。全然大丈夫やから安心して」

私は受話器越しに笑いながら説明した。田舎から一歩も出たことのない母に、アメリカの広大な地理感覚を求めるのは酷な話だ。しかし、時差も顧みず、異国にいる息子を本気で心配して電話をかけてくれた母の温かさと愛情に、胸が熱くなった。

遠い空の下で知った最愛の祖母の急逝

そして3つ目の、最も悲しい出来事は、同年12月の最愛の祖母の急逝であった。 祖母が進行性の癌であったことを、私はその時までまったく知らされていなかった。海外で孤軍奮闘する私を心配させまいと、両親が隠していたのだ。

母から泣きながら「おばあちゃんが亡くなった」と電話を受けた時、私はシカゴのアパートで一人、崩れるように大泣きした。この時ばかりは、自分の夢のためにアメリカへ来たことを激しく後悔した。

葬儀に帰国することも叶わない。。。私は涙を拭い、長距離電話でウエスタンユニオン(Western Union)に連絡した。日本語の弔電を送るためだ。キーボードの向こうのアメリカ人オペレーターに、一文字ずつ「O-K-U-Y-A-M-I」と日本語をローマ字で伝え、メッセージを託した。その電報は、奇跡的に日本の葬儀会場へ期日通りに届いた。

私は日系スーパーで買ってきた小さな湯呑みにお茶を入れ、線香と蝋燭を買い求め、日本の葬儀の時間に合わせて、シカゴの冷たいアパートの部屋で一人きりのひっそりとした葬儀を執り行った。

祖母と最後に会ったのは、赴任から半年後にビザ手続きのために2週間だけ一時帰国した時であった。その時、祖母へのお土産としてバスケットに入った可愛らしい小鳥の置物を買って帰った。それを祖母がとても気に入り、亡くなった際、棺に一緒に収められたという。

耳が遠かった祖母とは、国際電話で話すことも難しかった。しかし、彼女が亡くなる半年ほど前、日本の実家に電話をかけた際、たまたま祖母が一人で留守番をしており、電話に出たことがあった。

「すみません、私は耳が遠いもので、よう聞こえませんのや……」

そう繰り返す祖母に向かって、私は受話器越しに自分の名前を喉がちぎれんばかりに叫び続けた。すると奇跡的に、私の声が祖母の耳に届いた。

「おお、フランク(本名)か! 元気にしとるんか、しっかり頑張るんやで」

それが、最愛の祖母と交わした生涯最後の会話となった。

相棒の死と、サウスサイドの恐怖

悲劇はさらに続いた。シカゴ赴任当初、全米の出張に連れて行ってくれたイタリア系アメリカ人の元営業パートナーが急死したのだ。私より5歳ほど年上の気の良い男であったが、素行に問題があり、半年前に会社を解雇されていた。

解雇された後も私は個人的に彼と連絡を取り合って時折会っていたのだが、祖母が亡くなってからわずか数週間後、彼がアパートのベッドで冷たくなっているのを母親が発見したという知らせが入った。死因は薬物の過剰摂取(オーバードース)であった。

彼の葬儀は、シカゴ西部の郊外にある厳かなカトリック教会で執り行われた。アメリカでの葬儀に参列するのは、これが初めての体験であった。

カトリックの荘厳な告別式の後、車列を組んで南部の郊外にある墓地へと向かった。 アメリカのローカルルールで、葬儀の車列(Funeral Procession)は、すべての参加車両が昼間でもヘッドライトを点灯させ、数10台が一列になって一斉に移動する。驚いたことに、この葬儀車列には絶対的な交通優先権が与えられており、パトカーの先導のもと、赤信号であっても一切止まらずに交差点を突っ切ることが法律上許されていた。

無事に埋葬を終えた後、困った事態になった。墓地で現地解散となったのだが、そこはシカゴの南側に位置する場所であった。 私のアパートは遥か北側の郊外にある。帰るためには、シカゴのダウンタウンの南側――当時、全米でも最悪の犯罪率を誇り、数百メートルおきに警察直通の「緊急白い電話」が設置されている、悪名高き「サウスサイド」の極貧地帯を突っ切らなければならなかった。

当時はスマートフォンもカーナビもない。助手席にボロボロになるまで使い込んだ全米道路地図「Road Atlas」を開いて置き、冷や汗を流しながら最寄りの高速道路(インターステートI-90)の入り口を探した。

窓の外には、割れた窓ガラス、落書きだらけのビル、殺気立った視線をこちらに向ける若者たちの群れ。「信号で止まったら襲われる」という噂を本気で信じていた私は、絶対に赤信号で停車しないよう遠くの信号を見つめながらアクセルを踏み込み、サウスサイドを猛スピードで駆け抜けた。高速道路の「I-90 East」の緑の標識が見えた瞬間、私は心臓が口から飛び出すほどの恐怖から解放され、ようやく大きく息を吐き出した。

5. 荒野に生きるタフな先達と、1990年1月の「運命の電話」

シカゴでの過酷だが充実した日々のなかで私を支えてくれたのはアメリカ人の同僚たちだけではない。異国の荒野で逞しく生き抜く、規格外の「日本人の先輩」の存在があった。

その筆頭が、私より15歳ほど年上の先達、石川さんであった。 石川さんは、私が赴任する以前にシカゴの販売代理店で現地採用され、当社の製品を全米に広めてくれた凄腕のセールスマンであった。見かけは飄々としており、お世辞にもエリート営業マンには見えない。だが、彼の内側にあるバイタリティーは本物であった。

京都北部出身の彼は、高校を卒業後、ほぼ無一文の状態で単身アメリカに渡ったという。皿洗いや肉体労働をしながら苦学して現地の大学を卒業し、自力で道を切り拓いてきた「アメリカサバイバル」の体現者であった。彼の壮絶な苦労話を聞くたびに、私は「自分が手取り1,000ドル以下でモーテルに自腹で泊まっているくらいの苦労など、屁でもない」と強く励まされたものだ。

石川さんはその後、代理店を辞めて一念発起し、防犯警報機の販売・施工会社を設立した。「これからは治安の悪いアメリカで、ホームセキュリティの需要が絶対に増える!」と見込んでの開業であった。 しかしおかしかったのは、彼の会社には彼自身が販売している「最先端の警報機」がバッチリ設置されていたにもかかわらず、創業からわずか数ヶ月の間に、なんと2回も本物の泥棒に入られて機材を盗まれたことだ。

私から「石川さん、警報機ついてるのに泥棒に入られたら、商品の宣伝にならないじゃないですか!」と突っ込まれると、彼は「いやあ、フランク、泥棒もプロだからねえ。次はもっといいのを付けるよ!」とへらへらと笑っていた。彼のこの、どんな逆境でもへこたれない「タフなユーモア」が私は大好きであった。

その後、警報機ビジネスをあっさりと廃業した彼は、フルコミッション(完全歩合制、売れなければ収入ゼロ)の不動産業界へと飛び込んだ。そこで驚異的な行動力を見せ、シカゴに進出する日系企業を相手にオフィスや住宅の仲介契約を次々と勝ち取り、数年後には大勢の従業員を抱える不動産会社を設立して大成功を収めることになる。

そんな石川さんがある時、美しいイタリア系アメリカ人女性のスージーと結婚することになった。彼らの結婚式が、私がアメリカで参列した最初のウエディングパーティーとなった。

スージーのお父さんは、イタリア系特有のビシッとしたスーツを着こなすダンディなアメリカ紳士。一方で、京都の田舎からはるばるやってきた石川さんのお母さんは、小柄でいかにも日本の「田舎のおばあちゃん」といった佇まいの方であった。

カトリック教会での式の後のダンスパーティー。アメリカの伝統で、新郎は新婦の母親と、新婦は新郎の父親とダンスを踊り、さらには「新郎の母親(日本のおばあちゃん)」もスージーのダンディなイタリア系お父さんと並んで踊る時間があった。

慣れない西洋のステップに戸惑いながらも、満面の笑みでイタリア紳士の手を取って踊る、和服姿の小さなおばあちゃん。その一見するとミスマッチだが、この上なく温かくユーモラスな光景は、今も私の記憶の中に鮮やかに残っている。

結婚式の数日前、私はスージーと石川さんの新居への引っ越し手伝いを頼まれた。アメリカの3連休をすべてその手伝いに捧げることになったのだが、これがまた過酷であった。2人がそれまで住んでいたアパートも、引っ越し先の新居も、すべて「エレベーターなしの3階」だったのだ。

2人とも荷物が尋常ではないほど多く、私は階段を何十往復もしてベッドや重い段ボールを運び続けた。足が棒のようになり体力の限界を迎えていた時、石川さんの段ボールの中から「マイ・ボーリングのボール」がゴロゴロと3個も出てきた。その瞬間、私は「このボールをこのまま3階の窓から外の路面に向けて投げ捨ててやろうか」と本気で思ったものだ。

私が第一次アメリカ出向を終えて日本へ帰任することが決まった時、当時いたアトランタからシカゴの石川さんに電話をかけて挨拶をした。その際、彼は受話器の向こうでこう言った。

「え、フランク、日本に帰っちゃうの? もったいないじゃない。フランクの英語と根性があれば、こっちでいくらでも自立できるよ。ミリオネア(億万長者)になってから日本に帰ればいいじゃん!」

異国の地で、自らの腕一本で成功を掴み取った男だけが持つ、圧倒的なタフネスとメンタルの強さ。私はその言葉に痺れ、深い敬意を抱いた。

エピローグ:1990年1月、アトランタからの風

公私ともに過酷な経験を重ね、哀しい別れと温かい出会いを経て、私のシカゴ赴任は2年目を迎えていた。英語の壁も完全に突破し、仕事の進め方も現地の流儀をマスターし、ようやく一人前の駐在員として平穏な日常を取り戻そうとしていた、1990年1月初旬のことである。

オフィスに、日本の本社から1本の国際電話が入った。 電話の主は、本社の役員であった。

「大変なことになった。近いうちに、アメリカの競合であるH社(南部工場を複数抱える金属加工メーカー)を買収することに決まった。2月にアトランタで最終の買収交渉を行う。社長や常務、役員陣が一斉に渡米するから、お前もすべてのアゴアシ(手配と通訳)としてアトランタへ行け」

その瞬間、受話器を握る私の手にじわりと汗がにじんだ。

買収。アトランタ。南部工場。

それは、摩天楼シカゴでのスマートな「束の間の夢」が終わりを告げ、私が25歳の身で、人種差別、労働組合、ジャパン・バッシング、そして異文化の壁が渦巻く、本物の泥臭い「深南部の戦場」へと放り込まれることを意味していた。

私の人生を大きく変えることになる、激動の「南部PMI戦記」の幕が、静かに、しかし決定的に上がろうとしていたのである。

(第6話へ続く)

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