第1話:海外に憧れる1田舎学生が40年間にわたり海外ビジネス最前線で揉まれることになるきっかけ

海外ビジネスノンフィクション自伝シリーズ

 

プロローグ:40年前の「あの日」から始まった旅

2026年、62歳になった私は今、AIを相棒に日々のビジネスを戦っています。しかし、私のキャリアの原点を辿ると、今から40年以上前、1985年の「田舎の大学生」だった自分に突き当たります。

当時、私は自分がその後40年もの間、アメリカ南部の赤土が広がる工場の最前線や、世界を股にかけたビジネスの修羅場で揉まれ続けることになるとは、夢にも思っていませんでした。これは、一人の平凡な学生が、音楽への憧れと一通の募集広告をきっかけに、激動のグローバルビジネスの世界へ飛び込んでいった記録の始まりです。

アナログ時代の就職活動と「バブル前夜」の停滞

1985年。今の若い世代には想像もつかないだろうが、当時はインターネットもスマートフォンもなかった。「エントリーシート」という言葉すら存在しない時代だった。

私たちの就職活動の拠り所は、リクルート社から自宅にドサリと送られてくる、電話帳のように分厚い「就職情報誌」だった。何千ページという企業情報の中から、気になる会社を見つけては、ハガキを書いたり電話をかけたりして資料を請求する。それが当時の「当たり前」だった。

経済状況に目を向ければ、1985年はまさに歴史の転換点だった。同年9月のプラザ合意により、それまでの1ドル=240円前後だった為替レートは、わずか1年で150円台へと急激な円高が進んだ。日本は「円高不況」の真っただ中にあり、メーカーの輸出モデルが崩壊し、将来への不安が漂っていた。

バブル景気の狂乱が始まる直前の、少し重苦しい空気感。私の通っていた大学はさしてアカデミックでもなく、不況の影響もあって、地方学生に提示された選択肢は決して多くはなかった。

姉がくれた「運命のレコード」:ロックが拓いた異国への窓

そんな閉塞感のある田舎町で、私の心だけは常に「海の向こう」を向いていた。きっかけは、中学時代に姉から譲り受けた1枚のレコードだった。

私の2歳年上の姉は新しいもの好きで、当時はスコットランドのアイドルバンド、ベイ・シティ・ローラーズに夢中だった。ある日、姉はいつものようにジャケ買いをしたものの、あまり気に入らなかったという理由で、私にあるレコードをくれた。それが、Queen(クイーン)との出会いだった。

針を落とした瞬間、頭を殴られたような衝撃を受けた。フレディ・マーキュリーの圧倒的なボーカル、ブライアン・メイの咽び泣くようなギター、そして重厚なベースラインと完璧なドラム。私は一瞬で彼らの音楽の虜になった。

当時、月2000円だったおばあちゃんからのお小遣いをコツコツ貯め、1枚2800円もするレコードを買い漁った。音楽への興味は次第にレッド・ツェッペリンやディープ・パープルといったハードロックへ広がり、それと比例するように、歌詞の背景にある英米文化そのものへの強烈な憧れが膨らんでいった。

「留学」という叶わぬ夢と、英語研究会での日々

大学に入ると、私は迷わず英語研究会(ESS)に入部した。少しでも英語に触れ、いつか見たこともない世界へ行きたい。その一心だった。

しかし、現実は甘くない。周囲には半年や1年の短期留学に旅立つ仲間もいたが、当時の私にはそんな経済的余裕はどこにもあなかった。羨ましさを隠しながら、彼らを見送る日々。

「自分の金で行けないなら、仕事として行かせてくれる会社を探せばいい」

私の就職活動の軸は、非常にシンプルで、かつ切実なものに定まった。「安月給でいい。とにかくアメリカかイギリスに駐在させてくれる会社」。メーカーか商社、その一点突破で会社選びを始めた。

青田買いの進路部で出会った「運命の広告」

1986年の春先、大学の進路部に1枚の募集広告が貼られた。当時は企業間の協定も形骸化しており、オフィシャルな解禁日前に内定を出す「青田買い」が珍しくない時代だった。

その中に、関西の一部上場企業が出した「アメリカ駐在員候補の募集」という文字を見つけた。

「これだ」

私は躊躇なく応募した。当時は、日本の製造業が「日本で造って輸出する」モデルから、急激な円高と日米貿易摩擦を背景に「現地で生産する」モデルへと舵を切り始めていた時期だ。大手のみならず、中堅メーカーまでもが生き残りをかけて海外進出を模索しており、私の志望した会社もまさにその荒波の中にいた。

社長面接と、昭和61年7月豪雨の泥まみれの日々

運命の社長面接の直前、関西一帯を未曾有の災害が襲った。世にいう「昭和61年7月豪雨」だ。

京都府南部、木津川流域に位置する笠置町をはじめとする周辺地域は、連日の記録的な集中豪雨により甚大な被害を受けた。急流として知られる木津川が濁流となって氾濫し、沿岸の村々や家々は泥水に浸かり、インフラは寸断された。

当時、地元の消防団に所属していた私は、当然のように深夜の召集を受け、睡眠も取れぬまま最前線へと走った。

真夏のうだるような暑さの中、浸水した一人暮らしの家々に飛び込み、押し寄せた土砂をスコップで掻き出し、泥水を吸って鉛のように重くなった畳を一枚ずつ剥がしていく過酷な復旧作業。全身は泥と汗まみれになり、直射日光と照り返しで肌は真っ赤に焼けただれた。

翌日、私はそのボロボロの体のまま、リクルートスーツに身を包んで大阪の面接会場へ向かった。泥はきれいに落としたものの、日焼けで顔は真っ赤。企業側の目には「面接直前まで海で呑気に遊んでいた不真面目な学生」に映っていたに違いない。

しかし、不思議と当時の私の心は揺るがなかった。極限の現場で住民の方々を支え、「どんなに過酷な状況でも、目の前にあるやるべきやり遂げる」という消防団の活動で培った覚悟が、私の内側に静かな自信を宿させてくれていたからだろう。

エピローグ:1987年、戦場への第一歩

結果として、私はその会社に採用された。後に知ったことだが、私が選ばれた最大の理由は、志望動機が明確だったことと、あの豪雨災害の泥の中でも折れなかった「過酷な環境をやり抜く覚悟」が、面接官の言葉の端々から伝わったからだそうだ。

1987年、私は大学を卒業し、関西の中堅自動車部品メーカーに入社した。しかし、待っていたのは華やかな海外駐在ではなかった。当時の日本は、円高不況と言われながらも深刻な人手不足に陥っており、新入社員の私は「工場実習」という名のもと、月の残業が200時間に迫る過酷な現場へと放り込まれることになる。

そこは、まさに「監獄」のような生活。しかし、その泥臭い現場での経験こそが、後のアメリカ南部でのPMI(企業統合)という無理難題を生き抜くための、最大の武器になることを、当時の私はまだ知る由もなかった。

【次回予告】

第2話:月の残業200時間、昭和の「工場監獄」で学んだこと

「アメリカへ行ける」という甘い期待を打ち砕いたのは、油まみれの作業服と、終わりのない生産ラインでした。しかし、そこで出会った「名もなき職人たち」の背中に、私はビジネスの本質を見ることになります。

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海外ビジネスノンフィクション自伝シリーズ|全話一覧
プラザ合意後の1985年、田舎の学生が海外ビジネス最前線に飛び込むまでの記録。月200時間残業の工場、日本製造業の病など、40年間の実体験を全話一覧でお読みいただけます。

※筆者より:

この連載は、30年以上前の私の実体験をベースに、当時の経済状況や文化的な摩擦をAIと共に振り返る試みです。今の時代から見れば「あり得ない」ような出来事の連続ですが、その泥臭い奮闘の中に、今を生きるヒントが隠されていると信じています。ぜひ、毎週の更新を楽しみにしていてください。

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