1990年春。シカゴからアパラチアの山並みを越え、愛車に荷物を限界まで詰め込んで走り抜けた1,000キロの果てに、私はジョージア州フォーサイスカウンティにあるH社の工場へとたどり着いた。
この工場に来たのは2カ月前にDue Dilligence(精査)で来て以来だった。工場は何事もなかったかのように普通に稼働していた。周囲に広がるのは、見渡す限りの赤土と木々、その中にぽつんと取り残されたような無機質な巨大な建物。
「ここが私の新しい職場になるのか……」
耳を劈(つんざ)くようなプレス機や研削機の重低音と、漂う切削油のツンとした匂いの中で、25歳の私は静かに身震いしていた。
この工場は、私たちが前の親会社から「丸ごと一事業部」を買い取って設立した新生「H社」のヘッドオフィス、すなわち主工場であった。全米に散らばる6つの工場と、約650人の従業員を統括する本社機能が、このジョージアの片田舎の工場に集約されたのである。

1. 25歳の若造と、36歳のアメリカ人社長、そして巨大な赤字会社
新生H社は、それまで独立した法人ではなかったため、買収と同時にゼロから「会社」としての体裁を整える必要があった。
そのトップである「社長」に就任したのは、買収前の事業部時代にジェネラルマネージャー(GM)を務めていた36歳のアメリカ人、ロッド(仮名)であった。ロッドはミシガン州の出身で、地元の名門大学を卒業した財務系のバックグラウンドを持つ有能な男だった。彼はエンジニア(技術者)ではなかったが、その冷静な判断力と温厚な人柄で、現場のワーカーから絶大な信頼を寄せられていた。ロッドは、この後私たちが直面する想像を絶する困難の数々において、ことあるごとに私を庇い、救いの手を差し伸べてくれる、まさに「頼れるアニキ」のような存在になっていく。
彼の下には、経理、製造、技術などの各部門を統括するVP(バイスプレジデント)と呼ばれる幹部職が4〜5人いたが、彼らもすべて買収前からその職にあったアメリカ人たちであった。各工場の工場長たちも、そのままVPとしてスライドし、本社オフィスに名を連ねていた。
これら海千山千のアメリカ人幹部たちの中に、ぽつんと放り込まれた日本人。それが、私と副会長を務める30歳そこそこの若い本社の人間、そしてのちに赴任してくる3歳年上の経理マンの、わずか数人だけであった。
25歳、社会人3年目に突入したばかりの私は、実質的に「現地に常駐する唯一の何でも屋」として、この巨大な組織の歯車を噛み合わせるための超巨大なミッションに挑むことになった。
「フランク、とりあえずアメリカ人が何を言っているのか、すべて聞いて教えてくれ」
日本から短期、中期、長期でひっきりなしにやってくる本社の出張者や役員たち。言葉が話せず、車の運転もできない彼らの送迎、ホテルの手配、食事や週末のゴルフの世話、そして何より会議や現場でのすべての通訳業務が、独身で最年少の私に容赦なく回ってきた。
私の当時の愛車は、会社が値切って買ったGMの「アストロ」というミニバンだった。これは事実上、日本の出張者たちを詰め込んで運搬するための「護送バス」であった。私の住むアパートは2ベッドルームだったが、ホテル代をケチる会社の方針により、そこは常に出張者たちの「簡易宿泊所」と化していた。
昼間は工場の立て直しと決算の連結業務の通訳で泥まみれになり、夜はアパートに出張者を連れて帰り、彼らのために食事を作ることもあり、夕食後にようやく、自分の本業である工作機械部品のセールスエンジニアとしてのデスクワークを片付ける日々だった。
「俺は、何のためにアメリカに来たんだ……?」
当時、インターネットなど存在しない時代である。日本人駐在員にとって娯楽の一つは、日系スーパーの片隅にあるビデオショップで、日本から空輸されてくる「テレビ番組の録画ビデオ」を借りて観ることだった。
ある夜、疲れ果てた体でアパートのソファに沈み込み、知り合いから借りたトレンディドラマ『東京ラブストーリー』のビデオを観た。画面の中では、自分と同年代の男女が、東京のおしゃれなレストランでワインを片手に華やかな恋模様を繰り広げている。
ひるがえって、私の目の前にあるのは、テーブルの上に置かれた2ドルの冷凍「TVディナー」のアルミ容器と、隣の部屋から聞こえる日本の出張者のおっさんのいびき、そして窓の外に広がるジョージアの深い闇と虫の声だけだった。
「自分はこんなアメリカのド田舎で、一体何をやっているんだろう……」
情けなさと、圧倒的な孤独感から、深夜に一人で涙がこぼれた。

2. 「工機部隊」の急襲:中卒叩き上げの常務と、軍隊の規律
当時のH社は、見かけの大手企業という看板とは裏腹に、内情はボロボロの極限状態にあった。
前の親会社によるLBO(レバレッジド・バイアウト)の爪痕は深く、利益はすべて買収資金の返済に吸い取られ、設備投資は完全にストップ。機械はガタガタ、油は漏れ、製品の品質不良が多発して現地の日系カーメーカーやビッグ3からもクレームが多発しているという、まさに「瀕死の巨人」であった。
この絶望的な赤字工場を救うための「第一の矢」として、日本から派遣されたのが、本社の誇る精鋭「工機部隊(工機工場)」であった。
私たちの会社は、ニッチな機械部品を製造していたため、製造設備は特殊なもので、外部から新品で購入すると莫大な費用がかかる。そこで、日本の本社には「中古の古い設備を安価で買い、自社で最新スペックに改造・アップグレードする」という、驚異的な内製技術を持つ専門集団が存在した。
設備投資に伴う重い減価償却費を徹底的に抑え、世界一の低コストと高精度を実現する。この「いいとこ取り」のビジネスモデルこそが、地方の中堅メーカーであった我が社を東証一部上場企業へと押し上げた真の原動力であった。
この伝説的な部隊をゼロから作り上げ、社内で神格化されていたのが、中卒叩き上げの技術役員「T常務」であった。T常務は強烈なカリスマであり、彼の配下にある工機部隊は、常務を絶対的な教祖として崇拝する、規律とプライドに満ちた、ある種「宗教じみた軍隊組織」であった。
彼らが、ジョージアの本社工場を日本式に叩き直す「先発隊」として、長期出張で大挙して押し寄せてきたのである。私は工場実習時代にこの部隊の凄まじさと恐ろしさを身をもって知っていたため、彼らの派遣を聞いた瞬間、嫌な予感しかしなかった。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の狂騒の絶頂期にあった1990年、日本企業の自尊心は極限に達していた。
「アメリカ製品は品質が悪い。アメリカの労働者は働かない」
そんな傲慢な風潮が日本中に漂う中、24時間働くことを絶対の美徳とする昭和の猛者たちが、南部の荒野に降り立ったのである。
3. 「日本式の絶対正義」と、板挟みの泥臭いサバイバル
工機部隊が工場の門をくぐった瞬間から、凄絶な文化摩擦の火蓋が切って落とされた。
「おいフランク! なんやこの工場のザマは! 部品が床にこぼれまくっとるやないか!」 「なんであいつらは、自分の使っとる機械を掃除せんのや! 職人の風上にも置けん!」
しかし、ここにはアメリカの厳格な労働慣習という壁があった。
アメリカの工場では、Job Description(職務記述書)によって、機械を操作する「オペレーター」と、現場を清掃する「クリンリネス(清掃員)」の役割が明確に区分されている。オペレーターが良かれと思って機械の周りを掃除し始めると、それは「清掃員の仕事を奪う行為」とみなされ、労働組合や従業員間で大問題になるのだ。
「私たちは自分の仕事(Job)を完璧にやっている。なぜ掃除まで強制されなければならないんだ?」
反発する現地のワーカーたち。一方で、英語など一言も喋れず、「四の五の言わずにやれ!」と日本式の「根性論」と「規律」を怒鳴り散らす工機部隊。
その間で、文字通りすり潰されるようになったのが、唯一言葉のわかる私であった。日本の「絶対品質の論理」も正しい。しかし、LBOで搾取され、すっかり誇りを失っていた南部の従業員たちにそれを頭ごなしにぶつけても、頑なな反発を生むだけだ。連日の板挟みにより、私の胃はキリキリと痛み、胃薬が手放せなくなった。
あまりの理不尽さと、日本側の「アメリカ人を下に見る態度」に腹が立ってきた私は、ある日、ひそかな反撃に出ることにした。常務たちが激しい口調で現地のワーカーにダメ出しをし、私に通訳を求めてきたとき、彼らが英語を一切理解できないのをいいことに、ワーカーたちに向かって早口の英語でこう言ったのだ。
「この、背のちっさい、機嫌の悪い不細工なおっさんは、こうしてくれって言ってるよ。ごめんね」
その瞬間、張り詰めていた現場のアメリカ人ワーカーたちが、こらえきれずにドッと大爆笑した。
何も知らない常務は「おいフランク、なんでこいつら、ヘラヘラ笑っとるのや!」とさらに激昂するが、私はすかさず「私の通訳のジョークがウケただけです」と真顔でかわした。
決して褒められたことではないし、年を重ねた今の私からすれば「若気の至りの不適切な行動」として反省すべきことかもしれない。しかし、この泥臭い「意図的な誤訳」と、陰での『Disciples(使徒たち)』というあだ名のおかげで、私と現地ワーカーとの間の距離は急速に縮まり、固い信頼関係が築かれていったのである。

そんな中、工機部隊の「日本流ルール」の押し付けが生んだ、忘れられない2つのエピソードがある。
エピソード①:裸の付き合いの悲劇
T常務には、「男の真の信頼は、裸の付き合いから生まれる」という、日本の高度経済成長期を生き抜いた男特有の、極めて強力で、かつ現地の人間にとっては理解不能な信念があった。
ある日、ジョージアの工場を視察していた常務が私を呼び止めた。
「おいフランク、この工場には大浴場はあるんか?」 「あるわけないじゃないですか、常務。ここはアメリカですよ。シャワーしかありません」
すると常務は、大真面目な顔で信じられない命令を下した。「従業員に声をかけろ。今からみんなで一緒にシャワーを浴びるぞ」
私は目の前が真っ暗になった。アメリカにおいて、職場の同僚、それも男性同士が同じ空間で裸でシャワーを浴びるなど、セクハラや同性愛的な「気味の悪い行為」と受け取られかねない極めて危険なタブーである。
当然、従業員たちに声をかけても、皆ドン引きして「アイツらはクレイジーだ」と誰も来なかった。結果、最悪なことに、私一人だけが常務と、その信奉者たちと一緒にシャワー室に付き合わされる羽目になった。後日、現場のワーカーたちから私がどれほど「おいフランク、昨日は日本のボスといい夜を過ごしたのか?」とからかわれ、悔しい思いをしたかは、ご想像にお任せしたい。
エピソード②:マジックか、手品か
またある日、T常務が現場でワーカーに設備の改造指示を出そうとしていた。言葉が通じないため、身振り手振りで説明しようとしたが、拉致があかない。苛立った常務は、近くの段ボールに直接図を書いて説明しようとしたが、書くペンが手元にない。
焦った常務は、近くを通りかかったアメリカ人ワーカーに向かって、腹の底から大声で叫んだ。
「ヘイ! マジック! マジック!!」
その叫び声を聞いた現場のワーカーたちが、作業の手を止め、怪訝そうな顔をしながらぞろぞろと手ぶらで集まってきた。彼らは、段ボールを抱えて必死に「マジック(手品)! マジック!」と叫んでいる東洋人の役員を見て、「これから、あのボスの素晴らしい『手品ショー』が始まるに違いない」と本気で期待して集まってきたのだ。
英語でサインペンのことは「マーカー(Marker)」と呼んだりマジックとは言わないという事実を、私はその時、激昂する常務のプライドを傷つけないために、ついぞ伝えそびれてしまった。
4. 救世主「ジム」の登場:単身赴任してきた変わり者の品質課長
工機部隊の嵐のような日本式ルールの押し付けに、現場の不満が爆発寸前となり、私の胃壁が完全に限界を迎えていたそのとき、日本から一人の男が単身赴任でやってきた。
彼の名は、下(しも)さん。年齢は40代半ば。日本では次長クラスのベテラン品質管理課長であった。下さんは日本の本社では、主流の派閥から少し外れた「変わり者」として有名であった。私は古くからの面識がなかったため、最初は「また日本から、英語の喋れない頑固な昭和のオヤジがやってきた……」と、内心ため息をついていた。下さんが喋れる英語は、文字通り「Hello」と「Thank you」だけであったからだ。
映画『ブラック・レイン』の偏見が色濃く残り、アジア人が一人も歩いているような深南部の田舎町で、英語の喋れない40代のオヤジがやっていけるはずがない。
しかし、その私の浅はかな懸念は、下さんが工場に一歩足を踏み入れたその日から、鮮やかに覆されることになる。
下さんは、言葉を学ぼうとする代わりに、初日から作業着に着替え、現場の奥深くへとどっぷり浸かっていった。着任して2日目の夕方、下さんは私を呼び止めて、こう言った。
「フランク、明日から夜勤に入ろう」
私は耳を疑った。この工場は2交代、週3勤の24時間稼働であった。
「昼間だけ工場に来て、定時に帰っていては、夜の間に現場で起きている本当の問題(クレームの種)が見えてこない。夜に働く作業者たちとも顔を合わせ、彼らがどんな環境で、どんな顔をして作業しているのか、自分の目で見極めなあかんのや」
自称「技術のエリート」として日本式のマニュアルを怒鳴り散らすだけの工機部隊には、このような発想は微塵もなかった。私は下さんのこの泥臭い「現場第一主義」の姿勢に深い感銘を受け、この人のためならどんな通訳でもやってやろうと心に誓った。
下さんは、言葉が通じないにもかかわらず、不思議と現場のワーカーたちと肩を並べて、身振り手振りとスケッチブック、そして何より「自ら機械に潜り込み、油まみれになって手を動かす背中」で、彼らの信頼を瞬く間に勝ち取っていった。彼は決して、現地のやり方を「否定」から入らなかった。まず、彼のやり方を観察し、その中にある「良いところ」を見つけようとした。
ある夜、夜勤のパトロール中に、下さんがプレス工程の前で足を止め、こう言った。
「フランク、この工場のプレスのやり方を見てみい。工機の連中は『日本と違う、汚い』とボロクソに言っとるけど、これは素晴らしい工夫やぞ。日本の本社でも真似すべきや」
金属加工において、プレスの精度とスピードは生命線である。
「絶対品質」を掲げる日本の工場では、プレス加工の不具合を防ぐため、仕入れる鉄材の段階で、あらかじめ表面をきれいに整えた極めて高価な材料を購入するのが常識であった。品質は安定するが、その代わり材料コストが跳ね上がる。
一方、このジョージアの工場では、前の親会社から予算を止められていたため、表面の整えられていない最も「安価な鉄材」を仕入れていた。その代わり、彼らはプレス機に鉄材を投入する「直前のライン」に、自作の洗浄・研磨ブラシを取り付け、材料を送り込みながら自動的に表面をきれいにするという独自の工程を内製していたのである。
「日本のマニュアルをただ押し付けるのは、ただの傲慢や。彼らは限られた予算の中で、自分たちの知恵で『安く、楽に、確実に』やる方法を生み出しとる。ここは日本式のコピーにするんじゃなく、彼らの良さを活かした『良いとこ取りのハイブリッド』の工程にするべきや」
それは、日本の猛者たちが「アメリカは遅れている」と盲信し、決して認めようとしなかった、現地ワーカーたちの知恵が放つ、確かな「光」であった。
5. 「デニやん」との関係と、モノづくりの魂の共鳴
下さんと私はタッグを組み、日本の工機部隊への反撃を開始した。下さんが見抜いた現地の工夫をベースに、日本の厳格な品質基準を融合させる。下さんの徹底的な現場データと、ワーカーたちからの絶大な支持、そして何より彼の熱意の前に、あの頑固なT常務も、最後には「よし、そのハイブリッドで行け」と首を縦に振らざるを得なかった。
この格闘の過程で、現場のワーカーたちは下さんのことを親しみを込めて「ジム(Jim)」というニックネームで呼ぶようになっていた。名付け親は私だ。
「Hey, Jim! このプレスの金型、ちょっと見てくれ!」 「おぅ、任せとけ!」(もちろん日本語で)
そんな、言語の壁を超えたモノづくりの魂の共鳴が、工場のあちこちで見られるようになっていった。
そして、工場で最も気難しく、入れ墨だらけで目つきの悪かったプレス工の「デニス」との関係も、この頃にできた。デニスは入れ墨を入れた作業者で腕は立つがとっつきにくい印象で、最初は日本人の私や工機部隊をあまり快く思っていなかったように見えた。彼の持ち場には、製品をロット単位で管理するための巨大な重量計(仕掛品の重さを量るもの)が置いてあった。
ジムは毎朝、現場を回る際、健康管理のためにその大きな重量計に乗って自分の体重を量るのを日課にしていた。デニスは毎日、その様子を離れたところから冷ややかな目で見つめていた。
ある朝、ジムがいつものように重量計に乗ろうとしたとき、私はこっそり後ろから近づき、ジムがプラットフォームに乗った瞬間に、背後から自分の片足をこっそり重量計の端に載せた。目盛りは一瞬でジムの実際の体重から数十ポンドも跳ね上がった。
「……あれ? おかしいな」
急激な体重の増加にパニックになったジムは、慌ててポケットの中を確認し、目をこすりながらもう一度乗り直した。その瞬間、また後ろから私が足を載せる。
激しく焦るジムの滑稽な姿を、横で作業をしながら見ていたあの気難し屋のデニスが、ついに耐えきれずに、
「ギャハハハ!」
と、工場中に響き渡るような大爆笑を爆発させたのである。
ジムが驚いて振り返ると、そこには悪戯っぽい笑みを浮かべて足をかけているフランク(私)がいた。ジムも状況を了解し、「こらフランク、イタズラすな!」と大笑いした。
この、体重計の小さなおふざけをきっかけに、デニスは私たちに完全に心を開いた。私たちは彼のことを親しみを込めて「デニやん」と呼ぶようになり、何でも工程の相談ができる最高の相棒になったのである。
アトランタやシカゴの立派なオフィスで働き、領事館員やエリート商社マンたちが暮らす豪華な駐在員街とは無縁の、赤土と油の匂いにまみれたジョージアの田舎町。日本での工場監獄時代に培った「現場の人間に対する深い尊敬」を胸に、私は泥臭くもがいていた。
言葉や文化、人種が違っても、モノづくりの情熱と、相手を尊重する真摯な姿勢さえあれば、人は必ず通じ合える。
不可能に思えた「PMI」という名の本当の戦場に、ジム(下さん)という救世主と、デニやんたちの笑顔という、一筋の美しい光が差し込んだ瞬間であった。




