こんにちは。今回は『南部工場シリーズ』の第4話をお届けします。 1980年代後半、日本経済は大きな転換点を迎えていました。終身雇用と年功序列が当たり前だった「昭和のレール」が崩れ去り、激しい日米貿易摩擦と急激な円高が日本企業を直撃した時代。当時のアナログ極まる貿易実務のリアルと、右も左も分からない若手社員だった私が経験した「初めての海外赴任」への高揚と不安を、回顧録として綴ります。

1. 夢見ていた「昭和のレール」と、牙を剥く世界情勢
1987年に入社した当時、私が思い描いていた「会社人生」のイメージは、今思えば高度経済成長期の残照そのものだった。当時の日本企業には、一度入社すれば一生安泰という「終身雇用」と、年齢と共に役職が上がる「年功序列」の仕組みが強固に残っていた。転職すれば人生が終わりかねないという恐怖心すらあった時代だった。
私の将来設計も至ってシンプルだった。 数年の工場実習を経て、大阪梅田の本社・海外営業部へ配属。その後、3年目くらいにアメリカ・シカゴの販売代理店へ3年ほど駐在し、海外経験を積んだ「凱旋社員」として本社へ戻る。そして55歳の定年まで働き、静かに会社生活を終える――。 周囲の先輩たちが歩んでいる、疑いもしなかった確かなレールのはずだった。
しかし、私は知る由もなかった。数年も経たぬうちに、そのレールが音を立てて崩れ去ることを。
私の人生を根底から変えたのは、個人の努力を超えた巨大な外的要因だった。 1985年9月のプラザ合意以降、それまで1ドル=240円前後だった為替レートは、わずか1年で150円台へと急激な円高が進んだ。これにより「日本で安く造って輸出する」というビジネスモデルは、文字通り崩壊した。
さらに、当時の日米貿易摩擦は極限に達していた。 アメリカ側の対日感情は昨今の国際関係における摩擦よりも過激で、日本製品をターゲットにしたダンピング課税や極端な保護貿易が現実化していた。特に自動車業界においては、「Local Content(現地調達率)」という厳しい規制が課せられた。一定以上の部品を米国製にしなければ、米国内での生産であっても「米国産」と認められず、高額な関税を課されるという、なりふり構わぬ「日本叩き」の時代だった。
この荒波の中で、一次・二次の部品メーカーまでが生き残りをかけて米国生産へ舵を切らざるを得なくなった。この時代の要請が、私の運命を大きく変えていくことになる。

2. 事務所に現れた「作業着の社長」と、突然の内示
入社1年目、工場実習が始まって半年が過ぎた頃だった。 現場で油にまみれて作業をしていた私に、急な呼び出しがかかった。なんと、工場視察中の社長が私に話があるというのだ。
緊張しながら事務所の社長室へ入ると、そこにはスーツの上着を脱ぎ、代わりに現場の作業着を羽織った社長が座っていた。なぜ自分が呼ばれたのか見当もつかなかった私に、社長は唐突にこう言い放った。
「君には、来年9月ごろにアメリカに着任してもらう」
当初の予定より2年も早い、まさに寝耳に水の内示だった。4年に一度開催されるシカゴの工作機械見本市(IMTS)に間に合わせろと言うのだ。心の準備など全くできていなかったが、当時の「社命」は絶対。私は震える声で「承知いたしました」と答えるしかなかった。
この瞬間、私の実習スケジュールは猛烈な勢いで「早送り」されることになった。 それまで所属していた「第6製造係」から、工作機械の別の製品を扱う「第9製造係」へと即座に転属。すべての製品知識を叩き込むためだ。
あの「鬼瓦権蔵」と呼ばれた鬼係長との別れは、正直なところこの上ない喜びだった。第9係の係長は穏やかな人物で、何より立ち仕事から座り仕事に変わったことで、身体的な負担は劇的に楽になった。しかし、お世話になったベテラン作業員の原口さんをはじめとする臨時雇用の先輩たちに対しては、自分だけが先に「地獄」を抜け出すような申し訳ない気持ちで、胸が痛んだのを覚えている。
結局、翌年3月まで工作機械部門で修行を積み、その後は10kmほど離れた自動車部品の主力工場で検査・出荷工程を3ヶ月間経験。そして私は、ついに大阪梅田の本社・海外営業部へと異動した。
3. テレックスと信用状:アナログ極まる貿易の最前線
当時の海外営業の仕事スタイルは、現代から見れば石器時代のようなものだった。 パソコンなどは当然存在せず、オフィスには4人で1台の据え置き電話があるきり。海外とのコミュニケーションは、普及し始めたばかりのファックスと、旧時代のテレックスが併用されていた。
今の世代には想像もつかないだろうが、テレックスは英字1文字いくらという「従量課金制」だった。通信コストを削るため、私たちは必死に略語をひねり出した。 たとえば「図面を送ってください」は “pls snd dwg stp”。 ピリオドの代わりに “stp” と打っていたのは、当時のテレックスにはピリオドのキーがなかったからだと記憶している。
国際電話などもってのほか。1分100円以上という高額な料金ゆえ、めったにかけさせてもらえない。情報のやり取りはもっぱらAir Mailであり、インボイス(送り状)や信用状(LC)といった重要書類も、海を越えて届くのを悠長に待つしかない。 数MBのファイルさえ一瞬で送れる現代のIT環境からすれば、信じられないほど時間の流れが緩やかな時代だった。
本社での実習期間はわずか2ヶ月。飛行機にも乗ったことがない田舎者の若造が、少し英語がわかるというだけで、事実上「唯一の駐在員」として送り込まれる。大企業ではあり得ない無茶な人事だったが、そのチャンスを掴めたのは幸運だったとしか言いようがない。

4. 万歳三唱と、ノースウエスト航空の災難
1988年9月。私は今はなきノースウエスト航空で、伊丹から成田、そしてシカゴへと旅立つことになった。 会社が手配したチケットは、経費節減のため、皮肉にも一般の「観光ツアー客」と同じ格安チケット。ビジネスマンとしての赴任が、ツアー客に紛れての出発になる。当時の私は気にも留めなかったが、後で思えば赤面するような話だ。
出発当日、実家には専務車である黒塗りのクラウンが迎えに来た。年老いた祖母との別れを惜しみ、両親と同乗して大阪空港(伊丹)へ。空港には、今の妻(当時の彼女)も見送りに来てくれた。 しかし、会社側は組合委員長や役員、総務部長といった重鎮が勢揃いしており、私は出発前のレストランで、彼らに浴びるほどビールを飲まされた。
家族や恋人との静かな別れの時間もそこそこに、搭乗ゲートに向かう私を見送ったのは、空港に鳴り響く「万歳三唱」だった。 観光客で賑わうゲートで、真っ赤な顔をしてスーツに身を包んだ若者が万歳で送り出される。それはビジネスマンというより、戦地に向かう兵士か、あるいは何かの見世物のようだった。
さらに前途多難を象徴するかのように、成田での乗り継ぎ便が4時間以上の遅延の末、まさかの欠航。急遽成田で一晩泊まることになったのだが、航空会社が用意したホテルは、見ず知らずのバングラデシュ人との相部屋だった。
翌日、ようやく離陸した飛行機の窓から、私は夢中でシャッターを切った。奈良のカメラ屋で買ったばかりのカメラ。眼下に広がる白い雲を「島」だと思い込み、何枚も撮影したのだ。それほどまでに、海外は私にとって未知で、遠い存在だった。

5. シカゴの青い空と、グレーな「初陣」
シカゴ・オヘア空港に到着した時の光景は、今も鮮明に焼き付いている。 窓の外には荷物を下ろす黒人作業者の姿があり、空は見事なまでに真っ青に澄み渡っていた。
「ついにアメリカに来たんだ」
言葉にならない感情が溢れ、気づけば涙が頬を伝っていた。本当に、遠い道のりだった。
しかし、感傷に浸る時間はなかった。到着した私には、ある重大なミッションが課せられていただ。 実は、私はこの時点で正式な就労ビザを持っていなかった。入国目的はあくまで「出張や観光」を装ったB-2ビザ。最長6ヶ月しか滞在できない。この6ヶ月の間に米国内で就労ビザ(L-1等)を申請し、国外の領事館で発行してもらうという、アメリカの法律上極めてグレーな「綱渡り入国」だった。
入国審査官の前に立ち、私は必死に説明した。 「米国の顧客にとって重要なビジネスを完遂するために、どうしても6ヶ月の滞在が必要なのだ」と。 学生時代に英語研究会(ESS)で磨いたスピーチのスキルが、ここで初めて役に立った。審査官は「OK」と頷き、I-94(入国記録)に6ヶ月後の日付を記入してくれた。
こうして私は、晴れてシカゴの地を踏んだ。空港に迎えに来てくれた5歳年上の前任者、池田さんの車でダウンタウンへと向かう。FMラジオから流れてきたのは、ボブ・マーリーだった。
当時の私はまだ、この煌びやかなシカゴ生活が「束の間の夢」に過ぎないこと、そしてこの後に待ち受けるアメリカ南部の「赤土の戦場」での7年間に及ぶ壮絶な日々を、全く想像だにしていなかった。
【次回予告】第5話:ダウンタウン96階建てビルの煌めきと、南への「片道切符」
シカゴ・ダウンタウンの超高層ビルで過ごす華やかな駐在員生活。しかし、本社が南部工場の買収を決めた瞬間、私の運命は再び暗転します。「飛行機は高いから車で行け」。12時間の孤独なドライブの果てに、私が目撃した“本当のアメリカ”の姿とは――。次回もお楽しみに。
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(※本記事は筆者の実体験に基づき構成されています。当時の「ジャパン・バッシング」や経済状況に関する事実は、一般の報道およびソース資料に基づき補足しています。)




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