ジョージアの本社工場で、頑固な「工機部隊」との激しい摩擦を乗り越え、下さん(ジム)が見出した「いいとこ取り(ハイブリッド)の工程」が少しずつ軌道に乗り始めていた頃のことだ。
言葉も通じず、映画『ブラック・レイン』が象徴するような日本人への強い偏見や警戒感が残るアメリカ南部の現場で、ジムと私は日夜ワーカーたちとの距離を縮めていた。言葉は通じなくても、自ら機械に潜り込んで手を動かすジムの背中と泥臭い人間味は、冷ややかだった現地のワーカーたちの心を確実に溶かしつつあった。
そんなある日、改善活動の合間に事務所でコーヒーを飲んでいたジムが、唐突に妙なことを言い出した。
「なあフランク、スカイダイビング、やらんか?」

1. アパラチアの空を舞う「ジム」と、無邪気な笑顔
「……はい? スカイダイビングですか?」
私は耳を疑った。ジムは昔からずっと、一度でいいから空を飛んでみたかったのだという。
だが、私は筋金入りの高所恐怖症だ。建物の3階のベランダから下を見下ろすだけでも足がすくむタチで、スカイダイビングなど「10万円やる」と言われても断固拒否する(30万円なら少し考えるかもしれないが)。
「いや、私は絶対無理です」と全力で辞退したのだが、ジムは「人生で一回でええから飛んでみたいんや」と目を輝かせている。
仕方がないので、インターネットなど影も形もない1990年当時、分厚いイエローページ(電話帳)をめくり、アトランタの南にある小さなプライベート飛行場を探し出した。週末のタンデムジャンプ(教官と同乗して飛ぶ初心者用コース)をジムの分だけ1枠予約した。料金は確か200ドルほどだったと思う。「わざわざ自分の金を払って上空から落ちに行くなんて、物好きにもほどがある」と、私は半ば呆れていた。
土曜日の朝、ジムと、日本から出張で来ていた別の社員、そして私の3人で、シボレー・アストロに乗って約1時間かけて飛行場へ向かった。
現地に着くと、まずは30分ほどの講習を受けることになっていた。ジムは英語がまったく話せないため、私が講習場に入って通訳を始めたのだが、途中で同行していたもう一人の出張者が「喉が渇いた、ジュースを買ってきてくれ」と我が儘を言い出した。
「すみません、ちょっと待っててください。すぐ近くのガソリンスタンドで飲み物を買ってきますから」
そう言い残して車を走らせ、数分後に缶コーラを抱えて飛行場へ戻ってきたとき、ジムはすでに他の本格的なジャンパーたちに混ざり、満面の笑みを浮かべて小さな古いセスナ機に乗り込んでいるところだった。
「えっ、ちょっと待って! 講習理解できたの!?」
私の戸惑いを余所に、エンジン音を響かせたカタカタと揺れる老朽セスナ機は、青空へ向かってよちよちと飛び立っていった。
天気が良かったため、上空でセスナ機が円を描きながら高度を上げていく様子が肉眼ではっきりと見えた。しばらくすると、空中で小さな黒い点がポツポツと飛び出していった。確か4組ほどだったと思う。やがて、色鮮やかなパラシュートが空に開いた。
一、二、三……。
「……あれ? 1個足りなくないか?」
縁起でもないが、私の目は下の草むらにあった(笑)。数分後、背中に長身でイケメンのアメリカ人インストラクターをガッチリと背負い、まるで抱っこされたお猿さんのような格好をした日本のおじさんが、満面の笑みを浮かべてふわふわと舞い降りてきたのだ。
「フランク! すごいぞ! 空飛んだぞ!」
無事に着地したジムは、生まれて初めての体験に子供のように興奮し、何日も何日もそのときの話を嬉しそうに現場で語っていた。普段は頑固で職人肌のジムが少年のように目を輝かせて空の思い出を語る姿を見るのは、多忙を極める私の密かな癒やしでもあった。

2. もう一つの修羅場:山あいの町・イーストテネシー工場への強行軍
ジョージアの本社工場の改善と並行して、私とジムにはもう一つ、極めて重いミッションが課されていた。買収した6工場の中で最も古く、最も問題を抱えている「イーストテネシー工場」の改善である。
ジョージアの本社工場からイーストテネシー工場までは、ハイウェイI-85からサウスカロライナ州を経由し、I-26でアパラチア山脈を越えていく。距離にして約240マイル(約380キロ)、片道4時間少しの道のりだ。通常、早朝に出発して昼前に現地入りし、数日間終日対応して金曜日の夜半にジョージアへ戻るという、過酷な強行軍を月に何度も繰り返していた。
イーストテネシーの工場があるのは、人口6,000人ほどの小さな山あいの田舎町であった。1800年代後半から鉄道の要衝として栄えた街だったが、鉄道産業の衰退とともに町全体が急速に寂れていき、今や私たちが買収したこの工場が、町で唯一と言ってもいい最大の雇用の場であった。
京都の田舎の山奥でかつては鉄道の要所であった街で生まれ育った私にとって、寂れた鉄道の街という風景にはどこか郷愁を覚えるものがあったが、この町は非常に重く暗い歴史を背負っていた。
1918年、人種間の暴力事件をきっかけに、町の黒人住民全員が暴徒化した白人によって強制的に排除されるという「黒人追放事件」が発生。以来20世紀を通じて、日没後にアフリカ系アメリカ人が滞在することを禁じる「サンダウンタウン(Sundown Town)」として恐れられてきた土地だったのだ。さらに1916年には、サーカスの象(メアリー)が調教師を死なせたとして、地元の鉄道クレーンを使って公開処刑されたというショッキングな悲劇の舞台でもあった。
要するに、ジョージア工場以上に一筋縄ではいかない、閉鎖的で根強い排他性を持つ地域だったのである。
工場自体も全米6工場の中で最も古く、働いているワーカーの平均年齢も高かった。そして何より、6工場の中で唯一、全米強力労働組合である「USW(全米鉄鋼労働組合)」に所属するユニオン工場であった。会社全体の業績が赤字であるにもかかわらず、給与水準は全工場の中で最も高く、労使の対立が常に渦巻いている「最凶の問題児」だったのである。
テネシー工場に入り込むと、ワーカーたちが明確に「2つのグループ」に分かれていることがすぐに分かった。
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組合寄りグループ USWの幹部と強く結びついた集団。彼らは買収主である私たち日本人に対して露骨に心を開かず、強い警戒感と敵意をむき出しにしていた。少しでも高い時給と過剰な権利を勝ち取ることを目的としていた。
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協力派グループ 組合活動とは距離を置きたい集団。アメリカのユニオンは外部の専門交渉人が間に入り、労働者は毎月ばかにならない額の組合費を給料から天引きされる。このグループの人々は、「無駄なお金を組合に取られ、イデオロギーやストライキの方針に振り回されるのが嫌だ」と考えており、私達に対しても親切で協力的であった。
後にこのテネシー工場で、血で血を洗うような凄絶な「ストライキの修羅場」を経験することになるのだが、この時築いた協力派グループとの信頼関係が、私たちの命運を分けることになる。

3. 「ヒルビリー」たちの素顔と、自家製トウモロコシ酒『ムーンシャイン』
私とジムは、テネシー工場から車で30分ほど離れた場所にアパートを借り、そこを拠点にした。愛車のアストロに炊飯器、米、醤油や味噌などの日本食材を積み込み、二人で自炊しながら出張生活を送っていた。
出張中、現地のマイクというアメリカ人マネージャーが「フランク、たまには日本のメシを食べに行こう」と親切に誘ってくれたことがある。こんなアパラチアの山奥に日本レストランなどあるはずがないと怪しみながら連れていかれた店には、大きな看板が掲げられていた。
そこにあった店名は――『MAKATO』。
「……マカト?」
おそらく【誠(MAKOTO)】と書きたかったのだろうが、スペルを完全に間違えている。案の定、店の中身はありがちな鉄板・ステーキハウスだった。アメリカではシェフが鉄板の上でナイフやペッパーミルを曲芸のように振り回して肉を焼くスタイルを「HIBACHI(ヒバチ)」と呼んでおり、典型的な日本食だと勘違いしている。当然のことながら厨房に日本人シェフなど一人もいない。
だが、地元の白人客たちはシェフを日本人だと信じ切っており、シェフもまた片言の怪しい日本語っぽい言葉を話して日本人のフリをしている。日本食の看板を掲げた方が客が入るからだ。私はこれまで全米の出張先でこうした「自称・日本レストラン」に何度も出くわしたが、「彼らは日本人じゃないですよ」などと野暮な指摘をしたことは一度もない。彼らにも守るべき生活があるからだ。
テネシーの現場で働くワーカーたちは、都会のアメリカ人とは全く異なる文化の中で生きていた。
ある朝、工場に出勤すると、駐車場に停まったぼろぼろのピックアップトラックの横で、大柄な従業員が胸を張っていた。荷台を覗き込むと、そこには撃ち留めたばかりの血生臭い「大きな熊」が横たわっていた。
「ヘイ! フランク! 仕事前に山で仕留めてきたんだ。今夜食べるんだ!」
強烈な南部訛り(ディープ・サウス・アクセント)で笑う彼の豪快さに、私は度肝を抜かれた。時には鹿肉の差し入れをもらうこともあった。私自身、京都の山奥の田舎育ちで、叔父が狩猟で仕留めた鹿肉を食べたことがあったため、彼らの野生味あふれる暮らしには親近感を覚えた。
またある従業員は、禁酒法時代の名残である『Moonshine(ムーンシャイン)』と呼ばれる、自家製のトウモロコシ密造酒を粗末な瓶に入れて持ってきてくれた。火を近づければ青い炎を上げて燃え上がるような、アルコール度数70度を超える強烈な酒だ。
その一方で、彼らは極めて敬虔なプロテスタント(クリスチャン)でもあった。
ある年の感謝祭(サンクスギビング)、一人でテネシーに出張して寂しく過ごしていた私を哀れんで、一人のワーカーが自宅の夕食に招いてくれたことがある。
一般的に南部はバイブルベルトと呼ばれ、意外にお酒を飲まない人も多い。特に子供も含めた親戚との集まりではお酒は飲まない。そういうわけで振舞われたのは、素朴なサラダと鳥の胸肉のステーキ、自家製アップルパイ、そして自家製のりんごサイダー(ジュース)だった。食事が終わると、大勢の親戚たちを次々と紹介され、誰が誰かわからないままリビングのテレビでカレッジフットボールの中継を観るのだ。酒も飲まず、サイダーを片手に8時間無言でフットボールを観続ける空間。
「……時間の流れが、恐ろしく遅いな(笑)」
心の中で苦笑しながらも、孤独な外国人駐在員を家族のように温かく迎え入れてくれた彼らの素朴な善意に感謝した。
またある日、珍しいアジア人として評判になっていたらしい私は、従業員に頼まれて山奥にある小さな保育所を訪問した。そこはアパラチア山脈で木こり(ロガー)を営む人々の子どもたちが通う、トタン屋根の粗末な保育所だった。
子どもたちが着ている服は、明らかに何度も洗われて色あせ、上の子からお下がりされたくたびれたものだった。だが、私を見つめる子どもたちの瞳は、ダイヤモンドのように澄み切っていた。
「日本のサンタさんは、どうやって煙突に入るの?」
「日本にも山や川はあるの?」
無邪気な質問を投げかけてくる子どもたち。しかし、私を案内してくれた保母さんは、悲しそうに目を伏せてこう打ち明けた。
「この子たちの家は本当に貧しくてね……一食たった1ドルの給食費すら払えない家庭がほとんどなのよ」
その言葉を聞いた瞬間、私は思わず涙した。
彼らは、いわゆる「ヒルビリー(Hillbilly)」と呼ばれる、アパラチアの山あいに取り残された白人貧困層であった。アメリカに来る前の私は、「貧困=都市部の黒人やヒスパニック」という固定観念を抱いていた。だが、この南部工場で私が目の当たりにしたのは、産業の構造変化に見捨てられ、貧困の連鎖から抜け出せない白人労働者たちの切実な現実だった。
後に現アメリカ副大統領となるJ.D.ヴァンスが著書『ヒルビリー・エレジー(Hillbilly Elegy)』で描き出したアメリカの深い闇と苦悩。それと同じ構造が、1990年のテネシーの山奥に確かに存在していたのである。
4. 品質の鬼「トヨタ」での市場クレーム
1990年から1991年にかけて、私とジムはジョージアの本社工場とテネシー工場を往復し、必死で現場の立て直しに没頭していた。
工機部隊による設備のオーバーホールも順次進み、少しずつ品質と生産効率に改善の兆しが見え始めていた、まさにその矢先のことだ。買収前にH社が出荷した製品から、市場クレームが発生した。しかも、その納入先(エンドユーザー)は、日本の製造業の頂点に君臨する、あの「トヨタ」であった。
日本の親会社は徹底した品質管理で知られており、市場クレームなどまず発生しない。したがって、品質に対して世界一厳しいトヨタが直接工場監査に乗り込んでくるような事は、誰も経験したことがなかった。
「ト、トヨタが来る……! あのトヨタが直接この工場を監査しに来るんや……!」
報告を受けた瞬間、あれほど現場でタフだったジムの顔から血の気が引き、声が激しく震えていた。
当時の私は知識が浅く、「何を焦ってるんですか。クレームは我々が買収する『前』に前の親会社が作ったものでしょう? 我々には責任がないと言えばいいじゃないですか」と呑気に答えた。だが、これはビジネスの常識をまったく理解していない甘い考えであった。
アメリカのM&Aにおける契約書(Purchase Agreement)は、冷徹なまでに綿密に作られている。買収前のDue Diligence(資産査定)において、過去の品質クレームや製造物責任(Liability)は、すべて買収側である「買い手(我々)」がそのまま引き継ぐ契約になっていたのだ。
何より、完成車メーカーであるトヨタにとって、「前の親会社が作った」などという言い訳が通るはずもない。我々は、Tier1(一次下請け)である大手部品メーカーJ社を通じてトヨタに部品を納めていたTier2だ。もし今回の監査で改善の姿勢や原因究明が不十分だと判定されれば、トヨタからの受注は即座に停止される。
それは、買収したばかりのH社にとって、そして社運を賭けて巨額の投資をした日本の親会社にとって深刻な問題だ。我々が日夜目標としているH社の単独黒字化が不可能になってしまう大事であった。
サポートするからアメリカに来てくれと言われて出て来ても、そんなことは情状酌量の理由になんかなりはしない。買収した会社の問題を解決するのは我々の責務なのだ。今考えてみると至極当たり前のことである。
当時のアメリカのビッグ3(GM、フォード、クライスラー)の工場監査は、主に事務所での書類チェックが中心であった。だが、トヨタの監査は根本から異なる。 徹底的な「超・現場主義」なのだ。
彼らは事務所の書類などほとんど見ない。監査員が数人のチームに分かれ、1人が質問で我々の回答者を釘付けにしている隙に、他の監査員がふらっと現場の奥深くまで歩いていき、抜き打ちで現場のワーカーに直接質問を投げかけたり、隠しておきたい油漏れや不備を的確に見つけ出していく。
誤魔化しやハラ芸、口先だけの言い訳が一切通用しない「監査のプロフェッショナル」であった。
本社のように経験豊富な品質保証部隊が大勢いるわけではない。私個人にできることといえば、工場の清掃状態を日々チェックすることくらいであった。

5. 緊迫の朝、研削機に浮かんだ「黄色いアヒル」
監査当日の早朝。私は現場の最終チェックに回っていた。最初に確認に向かったのは、「研削工程」だ。
研削工程の奥のほうで、研削機を動かしていた作業員のMat(マット)が私に気づいて手招きをした。
“Hey, Frank. Over here.”(ヘイ、フランク。ちょっと来てくれ)
何か不具合でも見つかったのかと、Matの持ち場へ駆け寄った。彼が指さしたのは、研削機の横にある切削油(クーラント)タンクであった。
その濁った切削油の液面に、黄色いプラスチックのアヒルのおもちゃが、おどけた顔をしてプカプカと浮かんでいた。
子どもがプールやお風呂で浮かべて遊ぶ、あの黄色いアヒルだ。
Matはニヤニヤしながら、私とアヒルを交互に見つめている。毎日、焦りと緊張で顔を青くしながら工場中を走り回っていた私とジムの姿を見て、Matなりのユーモアで私たちをリラックスさせようとしたのだ。
「……プッ」
一瞬呆然としたが、次の瞬間、私はこらえきれずに吹き出してしまった。
もし、日本の絶対正義を振りかざす「工機部隊」のT常務が見たら、「不真面目だ! 仕事を何だと思っとるんだ!」と激高して雷を落としただろう。だが、私にはMatの温かい心遣いが痛いほど伝わってきた。
と同時に、強烈な勇気がお腹の底から湧き上がってくるのを感じた。
「そうか……我々には現場の仲間がいるじゃないか」
言葉も通じず、冷ややかだった南部のワーカーたちが、私たちの泥臭い奮闘を見て、こうして冗談を掛け合い、一緒に戦おうとしてくれている。日米の壁を超えた「現場の確かな信頼」が、ここにはあるのだ。
「もう、トヨタでも何でも来い!」
腹が据わった。私はMatの肩をぽんと叩き、最高のお礼を言った。
“Thank you, Mat. I love your duck. But… please hide him before Toyota guys get here!”
(ありがとうマット、最高だ。でも……トヨタが来る前に、頼むからそのアヒルは隠しておいてくれよ!)
Matは爆笑し、大きくうなずいた。
研削機に浮かぶ黄色いアヒル。それは、25歳の私にとって何物にも代えがたい「自信と信頼」の証であった。
(第9話へ続く)
【次回予告】第9話:現場主義の激突と、テネシー工場「怒号のストライキ」
いよいよ始まったトヨタによる緊張の工場監査。一切の妥協を許さないトヨタチームに対し、現場のアヒルがもたらした絆とハイブリッド工程で立ち向かう私とジム。監査の行方は――? そして舞台は、全米鉄鋼労働組合(USW)が立ちはだかる「最凶の問題児」イーストテネシー工場へ。景気後退の波と共に押し寄せるリストラ計画、そしてついに工場を包囲する労働者たちの「怒号のストライキ」。命の危険すら感じる激動の展開が幕を開ける! 次回もお楽しみに!
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