第3話:理不尽の極みで見た「日本製造業の病」と、現場の誇り

海外ビジネスノンフィクション自伝シリーズ

1. 「負の縮図」としての工場経営

かなり後になって、物事が客観的に見えるようになってから振り返って気づいたことだが、私が配属されたこの工場は、当時の日本製造業が陥りがちな「悪い例」がすべて凝縮されていた。

まず、経営陣が設備投資(減価償却負担)を極端に嫌っていた。精度が悪くなった旧式の設備をだましだまし使い続け、予備保全も十分ではなかった。さらに、複雑な工程間の投入量を最適に管理し、流れをスムーズにしてリードタイムを抑え、仕掛かり在庫を極力抑えるための生産管理システムすら存在しなかった。

管理はすべて勘任せの人力に頼り、機械の精度不足は工員の「手直し」で修正するという人海戦術が基本であった。それを、安い人件費で残業をさせまくることで解決しようとする。業績をよく見せるために、土曜日を無理やり出勤日にするという無茶苦茶な経営であった。

この会社の最大の問題は、技術力以前に「経営そのもの」であったと後に気づくことになる。この経験は、私のその後のビジネスキャリアに決定的な影響を与えた。企業の命運を握るのは技術力や営業力、マーケティング力であることは間違いないが、何より「経営の旗振り」が健全でなければ、企業は継続的に成長できないのだ。

この時期の私は、悪い経営がいかに従業員を不幸にするかを、身をもって体感するという皮肉な経験をした。62歳になった今振り返っても、その後これほどの理不尽を感じる場面には遭遇していない。キャリアの初期にこの「最悪のサンプル」を知っておいたことは、その後の私にとって大きな財産となったと言える。

2. 人間扱いされない「月初1日目」の休日

実習時代の生活は、毎週40時間以上の残業、月2日の休みという狂気じみたサイクルの繰り返しであった。しかし、その2日の休みに加えて、もう一日「休みと言えない休み」が存在した。それが、月初1日目である。

前号でも触れたが、月末の最終日は納期問題を解消できなかったお詫びとして、全員で「徹夜作業」を行うのが恒例であった。立ちっぱなしの作業で、休憩は食事の20分と仮眠の40分のみ。前日の朝8時から翌朝9時まで、24時間以上働き続けるのだ。朝9時以降は帰宅が許されるため、その日は形の上では「休み」となる。

日ごろ休みがない従業員たちは、この徹夜明けの朦朧とした意識の中で、パチンコに行ったりデートに行ったりしていた。「高度経済成長期は良かった」という懐古的な報道を耳にすることがあるが、私に言わせれば、今の時代の方が何百倍も良い。当時の日本企業は世界で存在感を示していたかもしれないが、その足元で働く従業員は、およそ「人間扱い」されていなかったのである。

3. 伊勢路への「一張羅」:慰安旅行の光景

そんな地獄のような環境下で、唯一無二の楽しみとされていた行事があった。年に一度の「慰安旅行」である。 既婚の作業員の先輩たちは、この一泊二日の旅行を一年中楽しみにしていた。これほど過酷な就労環境でよく行くものだと思ったが、一泊二日の時間を捻出するために、わざわざ事前に徹夜をして、工場に横付けされたバスに徹夜明けで乗り込むケースもあったという。

私が参加した年の行き先は伊勢方面であった。旅行会社の営業を工場に呼びつけて発注された、昭和の香りが色濃く残る団体旅行だ。若い独身の私などは正直気が進まなかったが、当時は「行って当然」という同調圧力があった。

驚いたのは、近鉄特急に乗り込む先輩たちの姿であった。普段は油まみれの作業着しか着ていない彼らが、この時とばかりに「一張羅」のスーツで着飾っていたのだ。中には、一般社会ではまずお目にかかれないような、派手なバラの柄のネクタイを締めている人もいた。

また、決して給料が高いわけではないのに、この時ばかりは驚くほど贅沢をされていた。ほかに金を使う時間がないのだから、当然かもしれない。セットの夕食があるにもかかわらず、わざわざ別注で「伊勢エビの姿焼き」を頼んで頬張っている姿には圧倒された。この旅行を糧に、彼らは一年間の地獄を耐え抜いてきたのである。その贅沢を笑う権利は、誰にもなかった。

4. 土曜夜の「土下座」と現場のしわ寄せ

月に2日しかない日曜の休みは、当時の彼女(今の妻)と会える数少ない、救いの時間であった。休み前の土曜日は、どのワーカーも心なしか浮き浮きして終業を待っている。

そんな土曜の夜間、名古屋営業所の営業マンが職場に現れた。私より5歳ほど年上のその男は、名古屋近郊の最大手顧客を担当していたが、そこへの納入が慢性的に遅れていた。私がいた最終組み立て工程は、納期督促のしわ寄せが最も集中する場所である。

彼は工場の床で、私たちに向かって「土下座」をした。「月曜に納入できないと大変なことになる。頼む、明日(日曜)やってくれ」と。その製品はまだ組み立てラインにすら届いていない。納期を死守するには、翌日の日曜日を返上して作業に当たるしかなかった。

50代後半の臨時雇用の大先輩たちを休ませない訳にはいかない。心待ちにしていた彼女とのデートをあきらめ、私は翌日の日曜日も作業着に袖を通した。営業マンも必死だったのだろうが、現場がどれほどの犠牲を払っているか、その「しわ寄せ」を骨の髄まで体感した出来事であった。

5. エピローグ:失われた「現場の距離」

後に私が営業に転じた際、周囲から「製造側の肩を持ちすぎる」と批判されることが多々あった。確かにその傾向はあったが、その根底にはこの実習時代の原体験がある。

当時、私と一緒に営業をしていた同僚や後輩の中に、工場で長期間働いた経験を持つ者はほとんどいなかった。高度経済成長期までは、メーカーの営業が現場で工程を学び、職人と関係を築く文化がまだ残っていた。しかし、プラザ合意後の急激な円高により、日本の工場は次々と海外へ流出した。その結果、営業と製造の間に決定的な「物理的・心理的距離」が生じてしまった。

これが、その後の日本製造業衰退の一因であると私は確信している。工場がどこにあろうと、販売を担う者は一度は現場の泥にまみれるべきだ。日本企業は、生産と販売が分離し、現場の痛みが伝わらなくなってから競争力を失った。海外でがむしゃらに揉まれるバイタリティーを持った日本人の数は、2000年代以降、近隣アジア諸国の競合に完全に圧倒されていると感じる。それは、実習時代に出会った原口さんのような「現場の誇り」を、我々がどこかに置き忘れてしまったからではないだろうか。

【次回予告】 第4話:初めてのフライト、そして摩天楼シカゴでの「束の間の夢」 地獄の工場実習を終えた私に下されたのは、待望のシカゴ赴任。初めて乗る飛行機の窓から見た景色、そして96階建てビルでの華やかな生活。しかし、その裏では、さらなる激闘の地「アメリカ南部」へのカウントダウンが始まっていた。

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プラザ合意後の1985年、田舎の学生が海外ビジネス最前線に飛び込むまでの記録。月200時間残業の工場、日本製造業の病など、40年間の実体験を全話一覧でお読みいただけます。

(※本記事は筆者の実体験に基づき構成されている。一部の歴史的事実は当時の報道や経済統計に基づき補足した。)

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